佛法力不思議ということは、どこにあるか。本願力不思議が佛法不思議であると、口では言うておるが、その不思議をしみじみと身に体験しておるのかどうか。
「とても地獄は一定すみかぞかし」に徹底してみると、不思議なことに、地獄必定から、願力摂取も、光明摂取も生まれてくる。これは体験である。不思議なことじゃ。これを「不思議を不思議と信ずる」というのである。
助かる道を見つけて助かるのでない。どうしても助からぬ、助かる道は絶対に無いということが分かった時、初めて助かる道が見える。他に道があるのでない、どうしても助からぬということが、助かる道である。それが不思議である。この不思議は誰でも体験が出来る。要は「どうしても助からぬ」の一点である。
「どうしても助からぬ」ということは、少しの掛け値もない。久遠劫来の事実である。思うても思わなくても、知っても知らなくても、凡夫はどうしても助からぬ、それに徹底すると、不思議なことには、助からぬことが、助かる道と合一する。これがほんとうの不思議である。
勢尽きて 汲み上げられし 蛙かな
稲垣瑞劔師「法雷」第26号(1979年2月発行)
2 件のコメント:
「どうしても助からぬ」が数えてみたら5回出てきます。
聞いても落ちる聞かいでも落ちる、
信じても信じないでも落ちる、
喜んでも称えても皆ことごとく落ちる、
ここが無上の幸福である。
この矛盾を、くどくどと論理づけも説明もしておられない。体験から出る言葉なのでしょう。佛智不思議に頭を下げきったすがたなのでしょう。
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