2021年4月6日火曜日

他に道なし

 佛法力不思議ということは、どこにあるか。本願力不思議が佛法不思議であると、口では言うておるが、その不思議をしみじみと身に体験しておるのかどうか。
 「とても地獄は一定すみかぞかし」に徹底してみると、不思議なことに、地獄必定から、願力摂取も、光明摂取も生まれてくる。これは体験である。不思議なことじゃ。これを「不思議を不思議と信ずる」というのである。

 助かる道を見つけて助かるのでない。どうしても助からぬ、助かる道は絶対に無いということが分かった時、初めて助かる道が見える。他に道があるのでない、どうしても助からぬということが、助かる道である。それが不思議である。この不思議は誰でも体験が出来る。要は「どうしても助からぬ」の一点である。

 「どうしても助からぬ」ということは、少しの掛け値もない。久遠劫来の事実である。思うても思わなくても、知っても知らなくても、凡夫はどうしても助からぬ、それに徹底すると、不思議なことには、助からぬことが、助かる道と合一する。これがほんとうの不思議である。

 勢尽きて 汲み上げられし 蛙かな

稲垣瑞劔師「法雷」第26号(1979年2月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「どうしても助からぬ」が数えてみたら5回出てきます。

聞いても落ちる聞かいでも落ちる、
信じても信じないでも落ちる、
喜んでも称えても皆ことごとく落ちる、

ここが無上の幸福である。

光瑞寺 さんのコメント...

この矛盾を、くどくどと論理づけも説明もしておられない。体験から出る言葉なのでしょう。佛智不思議に頭を下げきったすがたなのでしょう。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...