2021年4月18日日曜日

飽きることなき真の味

  • 信心正因ということは皆聞いて知っておるが、その信心とは二種深信のことである。故に二種深信が往生の正因である。
    これを忘れないで、二種深信に重きを置いて、しっかり聴聞するがよい。何十年二種深信の話を聞いても、聞き飽きたということはない。
  • 御文章に「弥陀たのむ」とある。弥陀たのむとは「信機」と「信法」のことである。
  • 二種深信に徹底した人は、「善もほしからず、悪もおそれなし」となる。こんな不思議な、最高の宗教経験は浄土真宗のみである。
  • 信心を頂いたらどんな気持ちになれますか、宗教体験を話して下さいという人がある。体験といったとて、どうしても助からぬ凡夫であると、機の深信に徹底するまでのことである。機の深信に徹底すると、不思議に如来親様がニューとあらわれて下さる。
    他の宗教では、神を見たとか、神の声を聞いたとか、こういう不思議なことがあったとか、いろいろと体験話をするが、そんなものは妄想か錯覚である。
    自分は底下の凡夫で、どうしても助からぬ、「とても地獄は一定すみかぞかし」となったのが体験といえば体験である。体験に助けられるのでないから、体験話は聞いてもよし、聞かなくてもよし。
  • 今日真宗の信徒の病気は、「今死んだらどうなるか」の問題を抜きにして、信心を得よう得ようにかかり果てておるか、法門の教義を知ることが真宗のごとく思っておる。それが病気である。
    一生涯「二種深信」だけに心を寄せると、真宗の真味が味わえるであろう。
稲垣瑞劔師「法雷」第28号(1979年4月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

弥陀たのむとは「信機」と「信法」のこと

とありますが、
「助からぬものを助ける」とは、
「助からぬ」と「助ける」のこと

光瑞寺 さんのコメント...

「助からぬ」も「助ける」も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなれば、まるまる佛智なり。
「弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀佛に身をばまるめたることなり」(御一代聞書一〇〇)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...