- 信心正因ということは皆聞いて知っておるが、その信心とは二種深信のことである。故に二種深信が往生の正因である。
これを忘れないで、二種深信に重きを置いて、しっかり聴聞するがよい。何十年二種深信の話を聞いても、聞き飽きたということはない。
- 御文章に「弥陀たのむ」とある。弥陀たのむとは「信機」と「信法」のことである。
- 二種深信に徹底した人は、「善もほしからず、悪もおそれなし」となる。こんな不思議な、最高の宗教経験は浄土真宗のみである。
- 信心を頂いたらどんな気持ちになれますか、宗教体験を話して下さいという人がある。体験といったとて、どうしても助からぬ凡夫であると、機の深信に徹底するまでのことである。機の深信に徹底すると、不思議に如来親様がニューとあらわれて下さる。
他の宗教では、神を見たとか、神の声を聞いたとか、こういう不思議なことがあったとか、いろいろと体験話をするが、そんなものは妄想か錯覚である。
自分は底下の凡夫で、どうしても助からぬ、「とても地獄は一定すみかぞかし」となったのが体験といえば体験である。体験に助けられるのでないから、体験話は聞いてもよし、聞かなくてもよし。
- 今日真宗の信徒の病気は、「今死んだらどうなるか」の問題を抜きにして、信心を得よう得ようにかかり果てておるか、法門の教義を知ることが真宗のごとく思っておる。それが病気である。
一生涯「二種深信」だけに心を寄せると、真宗の真味が味わえるであろう。
稲垣瑞劔師「法雷」第28号(1979年4月発行)
2 件のコメント:
弥陀たのむとは「信機」と「信法」のこと
とありますが、
「助からぬものを助ける」とは、
「助からぬ」と「助ける」のこと
「助からぬ」も「助ける」も、弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなれば、まるまる佛智なり。
「弥陀をたのめる人は、南無阿弥陀佛に身をばまるめたることなり」(御一代聞書一〇〇)
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