2021年5月12日水曜日

大信心は佛性なり

  • 「今死んだらどうなるか」の問題は、人間が一番嫌う問題である。
    現世の幸福に眼が眩んでおる現代人としては、死の問題は嫌いであろうが、死の解決は生の解決である。現世の幸福ばかり追い求めている人は、意義ある生き方も知らぬ人である。

  • 他の動物は「死」ということを考えない。人間は最高の動物であるから、「生あるものは死に帰し、盛んなるものは衰える」ということを知っておる。
    死を思うだけであったら、あまり感心した話ではないが、死を思うと同時に、永遠の生命(無量寿)ということを思う。
    無量寿とは、「法身常住の理なり」と、存覚上人が申されたごとく、佛性があることである。佛性を考えるのが、人間の尊いところである。

  • 浄土真宗で佛性とはどういうものかと言えば、信心が佛性、如来さまが佛性、如来の本願力によっていつかは凡夫も佛に成ることが出来る、それを佛性という。

  • 佛性があるのに、それを知らず、考えず、現世の幸福ばかり追い求めて地獄へ落ちることは、まことに悲しむべきことである。
    そこで天親菩薩も『佛性論』を書かれ、道元禅師も佛性のことを『正法眼蔵』という書物の中に書いておられる。親鸞聖人も和讃に佛性のことを記しておられる。
    佛性は、如来さまの「どうしても助ける」「助けなおかぬ」の大悲の本願である。
稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...
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土見誠輝 さんのコメント...

信心が佛性、如来さまが佛性、如来の本願力によっていつかは凡夫も佛に成ることが出来る、それを佛性という。
とありますが、

『浄土和讃』に、
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまう
大信心は仏性なり
仏性すなわち如来なり
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

聖道門だと「内なる佛性を磨き出せ」と教えるのでしょうが、浄土門だと我が身の内に清らかなものを求めません。罪深さも救済の可能性も、全く如来よりの回向に由るからです。二種深信が浄土真宗です。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...