- 「今死んだらどうなるか」の問題は、人間が一番嫌う問題である。
現世の幸福に眼が眩んでおる現代人としては、死の問題は嫌いであろうが、死の解決は生の解決である。現世の幸福ばかり追い求めている人は、意義ある生き方も知らぬ人である。
- 他の動物は「死」ということを考えない。人間は最高の動物であるから、「生あるものは死に帰し、盛んなるものは衰える」ということを知っておる。
死を思うだけであったら、あまり感心した話ではないが、死を思うと同時に、永遠の生命(無量寿)ということを思う。
無量寿とは、「法身常住の理なり」と、存覚上人が申されたごとく、佛性があることである。佛性を考えるのが、人間の尊いところである。
- 浄土真宗で佛性とはどういうものかと言えば、信心が佛性、如来さまが佛性、如来の本願力によっていつかは凡夫も佛に成ることが出来る、それを佛性という。
- 佛性があるのに、それを知らず、考えず、現世の幸福ばかり追い求めて地獄へ落ちることは、まことに悲しむべきことである。
そこで天親菩薩も『佛性論』を書かれ、道元禅師も佛性のことを『正法眼蔵』という書物の中に書いておられる。親鸞聖人も和讃に佛性のことを記しておられる。
佛性は、如来さまの「どうしても助ける」「助けなおかぬ」の大悲の本願である。
稲垣瑞劔師「法雷」第29号(1979年5月発行)
3 件のコメント:
信心が佛性、如来さまが佛性、如来の本願力によっていつかは凡夫も佛に成ることが出来る、それを佛性という。
とありますが、
『浄土和讃』に、
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまう
大信心は仏性なり
仏性すなわち如来なり
と教えていただいております。
聖道門だと「内なる佛性を磨き出せ」と教えるのでしょうが、浄土門だと我が身の内に清らかなものを求めません。罪深さも救済の可能性も、全く如来よりの回向に由るからです。二種深信が浄土真宗です。
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