善導大師のたまわく
「到る処に余の楽なし、唯だ愁歎の声を聞く」
(六道の何処にも楽はない、ただ愁い歎きの声ばかり)
と。言葉は厭世教のように聞こえるが、これが人生の真実のすがたである。
人生を楽なりといい、楽のみを追い求めておる人間こそ、寝ぼけておるのである。古語に曰く「世の無常 さとりつくして 春彼岸」と。
人生の苦を苦なりと知る人にして初めて真面目になることが出来る、そこから真剣に佛法の門に入るのである。
死を思わず、涅槃を求めざるものが、どうして佛心を頂くことが出来ようか。
苦しみをしみじみとなめてこそ、この苦悩の私を捨てずして、私のためにおこして下さった御本願であると頂けるのである。
人間は、煩悩と苦しみの他には何も無い動物である。それをそのまま、まるまるお助け下さる大悲の親様が有り難い。
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)
2 件のコメント:
帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな径たり。到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢えて後、かの涅槃の城に入らん、と。
(『教行信証』「真仏土巻」)にありました。
現代語版には、
さあ帰ろう、・・・・・この一生を終えた後には、さとりの浄土に往こう、
「八十年 きわめきわめし佛法は 本願名号ただひとつ よばれてかえる 親のふるさと」(瑞劔師)
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