2021年6月9日水曜日

因が清浄ゆえに果もまた清浄

  • 如来は絶対の智慧と大悲の親様である。凡夫は相対の動物である。絶対の智慧と絶対の慈悲のみが「清浄」である。相対の心は皆、虚仮不実である。

  • お浄土は絶対の世界である。これを「第一義諦(だいいちぎたい)(みょう)境界相(きょうがいそう)」という。雑行雑修自力のこころをはなれた、清浄の信心のみが、お浄土に生まれることができる。その信心は、如来の大悲心であり、佛智である。

  • お浄土の荘厳は、「願心荘厳(がんしんしょうごん)」といって、如来の本願力であらわれたものである。荘厳のままが佛智であり、大悲であり、南無阿弥陀佛であり、阿弥陀如来である。これを「依正不二(えしょうふに)」という。不思議じゃ、不思議じゃ。

  • お浄土の荘厳は、一々の花より三十六百千億の光明照らしてほがらかに、一々の光明の中より佛身を現じ、妙法を説きひろめ、衆生を佛道に入らしむる。広大無辺のお浄土である。

  • 浄土和讃の始めに「南無阿弥陀佛」と書いてある。その思し召しを味わうと、無限の味わいがある。知解(ちげ)分別をして知解分別を超えて、南無阿弥陀佛に融け込ませていただくのである。

  • この世の執着は離れがたい。「死にとみない、死にとみない」のうちに、お浄土へ参らせていただくのである。

  • 南無阿弥陀佛に捕らえられ、南無阿弥陀佛に手を引かれ、参る極楽、知らなんだ。

  • 物質文明が進歩すると、精神文化は衰える。真如の功徳が南無阿弥陀佛、如来の功徳が南無阿弥陀佛。その功徳力にて往生す。

  • 浮世の酒も飲まずに暮らされぬが、酔い過ぎてはいかん。「佛法中に人生あり」と心掛けて暮らすがよい。
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

如来は絶対の智慧と大悲の親様である。
とありましたが、

相対の凡夫が、如来様の無量寿と無量光に生かされているのです。

光瑞寺 さんのコメント...

私たちは「清浄真実」と「虚仮不実」、「相対」と「絶対」、と対立関係で考えますが、如来さまの智慧はそれらを超えて絶待であるといわれます。
私の浅智では分かりかねますが、如来さまにはそういう包括的な世界が開かれているから、相対の凡夫が生かされるのでしょう。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...