- 如来は絶対の智慧と大悲の親様である。凡夫は相対の動物である。絶対の智慧と絶対の慈悲のみが「清浄」である。相対の心は皆、虚仮不実である。
- お浄土は絶対の世界である。これを「第一義諦(だいいちぎたい)妙(みょう)境界相(きょうがいそう)」という。雑行雑修自力のこころをはなれた、清浄の信心のみが、お浄土に生まれることができる。その信心は、如来の大悲心であり、佛智である。
- お浄土の荘厳は、「願心荘厳(がんしんしょうごん)」といって、如来の本願力であらわれたものである。荘厳のままが佛智であり、大悲であり、南無阿弥陀佛であり、阿弥陀如来である。これを「依正不二(えしょうふに)」という。不思議じゃ、不思議じゃ。
- お浄土の荘厳は、一々の花より三十六百千億の光明照らしてほがらかに、一々の光明の中より佛身を現じ、妙法を説きひろめ、衆生を佛道に入らしむる。広大無辺のお浄土である。
- 浄土和讃の始めに「南無阿弥陀佛」と書いてある。その思し召しを味わうと、無限の味わいがある。知解(ちげ)分別をして知解分別を超えて、南無阿弥陀佛に融け込ませていただくのである。
- この世の執着は離れがたい。「死にとみない、死にとみない」のうちに、お浄土へ参らせていただくのである。
- 南無阿弥陀佛に捕らえられ、南無阿弥陀佛に手を引かれ、参る極楽、知らなんだ。
- 物質文明が進歩すると、精神文化は衰える。真如の功徳が南無阿弥陀佛、如来の功徳が南無阿弥陀佛。その功徳力にて往生す。
- 浮世の酒も飲まずに暮らされぬが、酔い過ぎてはいかん。「佛法中に人生あり」と心掛けて暮らすがよい。
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)
2 件のコメント:
如来は絶対の智慧と大悲の親様である。
とありましたが、
相対の凡夫が、如来様の無量寿と無量光に生かされているのです。
私たちは「清浄真実」と「虚仮不実」、「相対」と「絶対」、と対立関係で考えますが、如来さまの智慧はそれらを超えて絶待であるといわれます。
私の浅智では分かりかねますが、如来さまにはそういう包括的な世界が開かれているから、相対の凡夫が生かされるのでしょう。
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