2021年10月8日金曜日

ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり

 真宗学において一番問題であり、また難関でもあるところのものは「念佛」である。
 古来、念佛と信心の関係を「行信論」と称し、学徒は幾十年と研鑽したものである。

 然しながら、まず本願の生起本末を聞き、大悲心に立脚して、これを大処高処より見るならば、行信論は「大信海の行信論」でなければならぬ。
 ここに徹底すれば、「信」の一字一宗を振るうものは浄土真宗であるということもわかり、また教行信証が大信海より開けたということも合点がゆき、かつまた本願の三心より五願を開示するという法雷派の意味も了解することが出来るのである。真宗眼はここに在る。

稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「本願の三心より五願を開示するという法雷派」
とありますが、
本願は第18願のことで、その三心は至心、信楽、欲生我国のことです。
五願は第11願、12願、13願、17願、18願のことです。
法雷派のことを、また学ばせていただきたいと思います。

光瑞寺 さんのコメント...

これは「五願開示」という論題がついていまして、浄土宗が第十八願一つに基づいて念佛往生を語るのに対し、十八願の救いありようを五願に開いて明らかにする、ことを論ずるものです。法雷会に参加するようになった当初からお聞きしておりましたが、最近まで何のことやら分かりませんでした。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...