善に二通りの善がある。一つは「相対の善」であって、他は「絶対の善」である。
「絶対の善」はこれを最高善という。人間の善はすべて相対の善のみである。なぜかといえば、人間の智慧は相対的の知識だけしか持っていないからである。絶対の智慧は人間にはない。
佛教において善悪の種類と階級を分類すると、ざっと十階級ある。それは、㈠地獄 ㈡餓鬼 ㈢畜生 ㈣修羅 ㈤人間 ㈥天 ㈦声聞 ㈧縁覚 ㈨菩薩 ㈩佛 である。これを「十界」という。
㈠から㈥までの生類は「悪」甚だしく、「善」といっても相対的善のみである。ゆえにこれらを「六凡(ろくぼん)」という。
㈦から㈩までは「絶対の善」、すなわち純粋の善(清浄の善)か、それに近い生類である。ゆえにこれら四つの階級のもを「四聖(ししょう)」という。完全なる善、すなわち絶対の善(純粋の善)のものは、最高の生類、すなわち佛陀あるのみである。
善の階級と種類がどうして分かれるかといえば、智慧の有無と慈悲の有無と、無我と我執の差異によって、善悪に差異が生ずるのである。
絶対の善は絶対の智慧である。絶対の智慧の佛陀にして初めて、絶対の善を行い得るのである。人間は相対の知識しか持っていないから、相対的善しか為し得ないのである。
キリスト教は大宗教であるが、「善」について、人間の善と神の善、相対的善と絶対善、清浄の善と汚れたる善との区別と理論がない。
たとえば『マタイ伝』に「心の浄きものは幸いなり、その人は神を見ることを得べければなり」とある。この場合「心の浄き」とはどの程度の浄さをいうのであるか不明である。
佛教では、禅定を完成して心が澄浄に成ったのを真智といい、大智という。「真智・大智」は直ちに大慈悲を生む。絶対の善とはこの境地を指すのである。
稲垣瑞劔師「法雷」第37号(1980年1月発行)