佛様とはどういう御方かといえば、八万四千の煩悩が一つ残らず無くなって、心は鏡のごとく波が一つも立たぬようになり、智慧は法界の実相を実相のごとく了悟しておられる御方が、佛である。
上のような心境から大慈悲心があらわれ、大慈悲と佛智とがはたらいて本願をおこされ、本願が成就して南無阿弥陀佛という佛に、また成られるのである。
南無阿弥陀佛を聞くということは、如来の大慈悲心を聞かせていただくことである。どういう風に聞くかというと、南無阿弥陀佛が「よびごえ」となってくださるから、私の心にいただかれるのである。よんでくださるから参られるのである。そこに腹の据わったのを、信心獲得したというのである。
毎朝毎晩、二六時中ほとんど絶ゆるひまなく、佛様佛様と思うことである。阿弥陀如来とお釈迦様、佛様のおかげで生死を出ずることが出来るのである。
世の人も皆一様に、佛がどんなにか尊い、ありがたい、えらい、親しい、懐かしい、忝い御方であるということが分かればよいのに、それがどうしたら分かってくれるだろうかと念願する次第である。
道(みち)を以て交わる友は、何年経っても離れることはないが、利(り)を以て交わる友は、利益が無くなると直ぐ離れて、昨日の友は今日の仇(あだ)となる。こういうことが分かるのは真の佛法者のみではなかろうか。
佛教を信じておる人は好んで佛の教えを聞く。佛様の教えを聞いて、その通り行動しておれば言うことはない。佛教は人を誤らさないものである。
真の佛法者は、最初五分間逢ったときの態度と、何十年後に逢ったときと少しも変わらぬものである。何故かといえば、その人は常に如来さまの前で行動する人であるからである。
自分の心を打ち明ける人が無いということは淋しいことである。そうかといって誰にでも打ち明けたら、直ぐそれが自分の仇となる場合が多い。自分を知ってくれる人が世の中に一人でも二人でも居ったら、その人は幸福である。
実際人多き世ではあるが、ほんとうに自分を知っていてくれる人は、親と子供と、佛教の師匠くらいであろう。その他に自分を知ってくれる人は、自分が多年手引きした佛教の信者である。
その他にもう一人ある。それは如来さまである。親鸞聖人である。まあ、これだけの人に知っていただいたら、全世界の人が自分を知らなくとも少しも淋しいことはない。
聖徳太子様も達磨さんも、毒殺されたという言い伝えがある。法然上人も親鸞聖人も御流罪に遭われた。そのことを思うたら、末代の我らが人に苦しめられるくらいのことは何でもないことである。
親鸞聖人が御流罪に遭われたときのお言葉が偲ばれる。いわく、
「抑(そもそも)大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまはずは、我また配所に赴かんや。もし我配所に赴かずんば、何によりてか辺鄙(へんぴ)の群類を化(け)せん、これなほ師教の恩致(おんち)なり」
と。われらも常にこのおこころで暮らしましょう。
『文類聚鈔』に聖人のたまわく、
「大悲の願船には清浄の信心を順風と為し、無明の闇夜には功徳の宝珠を大炬と為す」
何と有難いおことばでないか。功徳の宝珠とは南無阿弥陀佛のことである。清浄の信心と功徳の宝珠とを別のもののように見てはならぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第52号(1981年4月発行)