2022年4月20日水曜日

信心銘

 無学でも貧乏でも、勇みの念佛が自ずからあふれ出る人は、何となくなつかしい。甚深の尊敬に値する。
 お念佛(信心)は人生の全面にあふれ、全面を生かすものである。これが如来の光であり、壽(生命)である。
 無明の闇の中で、光明を味わわせていただくのは、またとないよろこびである。


 夢の世に、夢ならざるものが一つある。それは佛語である。迷いの世の中に迷いならざるものが一つある。それは佛願である。
 信心は、信心の人を通してのみ、佛語を通してのみいただけるのである。

 御同行の中には、学問が無くても、ぼろぼろの着物を着ていても、本願力に打たれ切ったえらい者がいる。敬い、大きに尊ぶべきである。その人は諸佛如来の親友だからである。

 
 孜々として三十年五十年、毎夜遅くまでお聖教に眼をさらしうる人は幸いである。それで人生が安楽に渡られる。

 信心を未だ獲得せずとも、佛教を一生懸命やっておる人には、不可称不可説不可思議の利益がある。 

 佛教を学んで将来伸びる人は、たえず自己の生死の問題を眼中に置いて、業報のおそろしいことに目覚め、根気よく勉学する人である。こういう人は、お経を学んでも眼光紙背に徹し、人が三年かかるところを三ヶ月で成し遂げることが出来る。

 信眼ありとも法眼なき人あり、法眼ありとも信眼なき人がある。信眼なき人は雑学の人に多く、法眼なき人はお聖教を読まぬ人に多い。法眼・信眼ともに具わった人は稀である。桂利劔先生はその人であった。

 僧侶には僧魂というものがある。またあるべきである。これは士魂にも勝る。最高の人格である。佛法において、法を見、法に入り、法に住し、節を曲げざる人である。
 俗に在りて俗塵に染まず、僧にして僧を忘る。ただ眼中有るものは佛法のみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第52号(1981年4月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「眼中有るものは佛法のみである。」
とありますが、
誠に、この世は法の届かぬところはなけれども、
我が眼の中にあるのは、恥ずかしいものばかりであります。
有り難い事であります。

光瑞寺 さんのコメント...

厳粛なお言葉に、書き(打ち)ながら冷や汗の出る思いです。
頂いたコメント自体も、有難いものです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...