2022年11月20日日曜日

心を弘誓の佛地に樹てよ

 真宗の根本は、阿弥陀如来の本願である。本願は阿弥陀如来の「無我の大悲」であり、「無分別の真智」そのものであり、またその功徳力のあらわれである。その本願を「南無阿弥陀佛」という。
 「本願」という言葉を聞けば、佛の無我の大悲が憶われ、「南無阿弥陀佛」と聞けば、佛の無分別の大智が念われる。如来の大悲大智の功徳力、すなわち南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。『和讃』に親鸞聖人のたまわく、

 「自利利他円満して
  帰命方便巧荘厳(南無阿弥陀佛)
  こころもことばもたへたれば
  不可思議尊を帰命せよ」

と。「安心ができません」といって歎く必要がないではないか。「安心」も「不安心」も要らぬ大安心が、南無阿弥陀佛のうちにいただかれる。

稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。

あれこれ考える必要はなかったのですね。
「独立」という聞きなじみがなかったので、どういうことかと思っていましたが、

南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。

光瑞寺 さんのコメント...

「ひとりだちしてすけささぬ」とは法然上人の法語にありますが、「南無阿弥陀佛の独立」は瑞劔師の雇用語のようです。この「独立」という語について、ある先生が「先哲の言葉には〈独用〉はあっても〈独立〉はない、祖聖の言葉にあらざる語を用いるのはいかがなものか」と苦言を呈したそうです。
それを聞いた瑞劔師はまた、
「お聖教に無うてもそのお心はあるわい。東天に日が昇れば十方の闇晴る、南無阿弥陀佛!と目の前に出て下さったら我々の往生は決定しておるんじゃ」
との意を仰ったとのことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...