真宗の根本は、阿弥陀如来の本願である。本願は阿弥陀如来の「無我の大悲」であり、「無分別の真智」そのものであり、またその功徳力のあらわれである。その本願を「南無阿弥陀佛」という。
「本願」という言葉を聞けば、佛の無我の大悲が憶われ、「南無阿弥陀佛」と聞けば、佛の無分別の大智が念われる。如来の大悲大智の功徳力、すなわち南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。『和讃』に親鸞聖人のたまわく、
「自利利他円満して
帰命方便巧荘厳(南無阿弥陀佛)
こころもことばもたへたれば
不可思議尊を帰命せよ」
と。「安心ができません」といって歎く必要がないではないか。「安心」も「不安心」も要らぬ大安心が、南無阿弥陀佛のうちにいただかれる。
稲垣瑞劔師「法雷」第67号(1982年7月発行)
2 件のコメント:
南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。
あれこれ考える必要はなかったのですね。
「独立」という聞きなじみがなかったので、どういうことかと思っていましたが、
南無阿弥陀佛にて往生することを「南無阿弥陀佛の独立」という。
「ひとりだちしてすけささぬ」とは法然上人の法語にありますが、「南無阿弥陀佛の独立」は瑞劔師の雇用語のようです。この「独立」という語について、ある先生が「先哲の言葉には〈独用〉はあっても〈独立〉はない、祖聖の言葉にあらざる語を用いるのはいかがなものか」と苦言を呈したそうです。
それを聞いた瑞劔師はまた、
「お聖教に無うてもそのお心はあるわい。東天に日が昇れば十方の闇晴る、南無阿弥陀佛!と目の前に出て下さったら我々の往生は決定しておるんじゃ」
との意を仰ったとのことです。
コメントを投稿