無量光
衆生が無量であるから光明も無量、これで無量の衆生が助かる。一人一人に阿弥陀様は光明となって付いて下さる。
極楽は私の極楽、阿弥陀様は私の阿弥陀様、となると、他の方は極楽、私は地獄と心配することは要らぬでないか。阿弥陀様は他人の阿弥陀様と思うから、助けて下さるであろうか助けて下さらぬであろうかと疑いを生ずるのである。私一人の阿弥陀様となれば、いつもいつも安心。
真実明
私の胸のうちは「真っ暗がり」、暗がりではお浄土へ参られぬ。その暗い胸を明るうして下さるのが阿弥陀さま。それで阿弥陀様のことを「ほんまの光り(真実明)」と申し上げ奉る。
暗がりで参るか、明るうなって参るか、ここのところは難問題。どうじゃどうじゃ。私の胸を眺めたら暗いのが地性、盲目を手を取って渡してくださるのが如来様。「明るうなろう」と力むことはいらぬ。
くらがりの、落ちる姿のまま、お助けの御本願である。お力をたのむのが肝心である。佛法は、言葉の端に引っかかっておると夜は明けぬ。
どうせ ろくに聞かぬ私
それをお目当ての御本願
不思議 不思議
「お前の後生を引き受けたぞ」と仰るのに、それが不足で「暗い」「明るい」を穿鑿しておるのか。方角が違うぞ。
無碍光
佛様のお慈悲の力に勝つものはない。障りの無い光明、悪業煩悩にも障りなくお照らし、どんなことが起こっても、どんな機ざまでも、そんなことには邪魔にはならぬ。
佛法は何でもかでも「お助け」と言うから、分かったようで分からぬことが多い。
「助かろう」となると、助かるようにこちらの心を合わせていく気持ちになる。「助からぬもの」ときまっておるのであるから、「ほんまに助からぬものは私でございますなあ」となったら、そのうちから、如来様の無碍の光明があらわれて下さる。これぞ佛智一乗、大乗の極致である。
稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)
2 件のコメント:
突然に浄土に向かう事になった者の家族の戸惑いや悲しみを声にしなくても阿弥陀様は受け止めてくれはりますか。寂しさ悲しみで心身が壊れない様に助けてくれはりますか。亡くなった者も悲しみの者も大切です。
伝え聞いた話です。
奈良のあるご住職の姪御さんが二十歳前で亡くなった。繊細な娘だからと気に掛けていただけに、ご住職もショックに打ちのめされた、だが姪の母親(ご住職の姉)の悲しみは凄まじかった。娘の亡骸の前で、まるで獣のような、人間のものとは思えぬ声で泣いた。
「今まで聞いたことのない」声だったそうです。残った者の心身をも破壊しそうな、そんな「死」が私は恐ろしいです。死の前では人間の言葉は何の力もないと思い知らされます。
どうか人間ではなく、阿弥陀さまにお聞き下さい。阿弥陀さまは、声にならぬ悲しみもそのまま受け止めて「大丈夫や」と言うてくださる。「どんなときでもここに阿弥陀がおる、心配するな」と言うてくださいます。わたしの悲しみの真っ只中に、必ずご一緒くださる佛さまです。
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