2023年1月5日木曜日

肚の据わり

 腹というものは、立ちやすうて据わりにくいものである。
 お釈迦様の仰ることは嘘ではない。善導大師、法然聖人、親鸞聖人のお言葉を信ずるので、自分の後生が極まる。

 いろいろ書物を読んでみたが、どの書物もカスカス、自分の生命(いのち)となり、血液となる書物は佛法の本ばかり。佛法の中でも浄土真宗のお聖教は、ほんまの生命の水である。
 世の中は迷信か無宗教か、無安心か異安心か。これでは困ったものである。

 佛法が腹に入ると「困った」ということはなくなる。これは不思議である。そのわけは、
 因縁を知るからである。
 欲を出さぬからである。欲のないものは無いが、曲がった欲は出さぬ。
 それで諸天善神のお守りがある。

 佛法の尊さ  これに肚が据わって
 心の不思議  これに目をつけて
 本願力の強さ これで安心 これで安心。

稲垣瑞劔師「法雷」第68号(1982年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

肚(はら)という字を見たのは初めてでした。
「腹の据わり」という標題であれば、見過ごしていたいたところですが、
肚とされていたので、考え直す機会となりました。
腹の指す意味は、広くなっているのでしょうが、背に対するのが腹であって、
肚は、それぞれの生き物の中心部分を指し、対義語がないのでしょう。
「肚の据わり」が、しっくりとします。

光瑞寺 さんのコメント...

私は逆に見慣れて見過ごしていました。
それにしても、対義語を考えることで違いが際立つ、なるほどです。目から鱗が落ちる思いです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...