2023年5月15日月曜日

如来様がはたらいて

 凡夫は、信じたようでも往生極楽の元手になるほど純粋な、一念の浄信をよういただかぬ。

 「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」

と、南無阿弥陀佛のひとりばたらきを、ひとりばたらきさせておいたら、それが「弥陀をたのむ」とも、「弥陀にまかした」とも、「南無阿弥陀佛の独立」とも、また「広大無碍の一心」ともいうのである。
 とかく自分がはかろうたならば、それは「凡夫自力のはからい」というもので、信心取ったと思うていても、大信心ではなくて、凡夫の思いであり、「つもり」である。「つもり安心」にては、大願清浄の報土に入ることはできぬ。

 南無阿弥陀佛の「ひとりばたらき」は、私の煩悩も、疑いも、心も、身も、世界までも全滅して、ただ「ありがとうございます」とならせたもう「はたらき」である。「はたらき」とは「不可思議の誓願力」である。
 如来様がはたらいてござるのに、凡夫がその上に、何をして、どういうはたらきをして往生しようと思うておるのであるか。
 如来の大誓願力が我が往生、如来の大悲心が我が信心、如来招喚の勅命が南無の信心というものである。

 「帰命(信心)は本願招喚の勅命なり」

と。ただ如来の誓願不思議力にて参らせていただくのである。ようまあ「ただ助くるぞ」の本願をお建てくだされたことよ、とよろこぶ他はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

ようまあ「ただ助くるぞ」の本願をお建てくだされたことよ、
とあります。

阿弥陀仏の本願をどのように話されるのか、とても重要なところです。
「我をたのめ、必ず助ける」
「必ず救う、我にまかせよ」
「我が名をとなえるばかりで助ける」
「あなたが仏にならなかったら、私も仏にならない」
「わしにまかせよ、必ず救う、心配するな、お前一人をきっと救う」

・・・・・集めているところです。

光瑞寺 さんのコメント...

いいですねぇ。
「釈迦無礙のみことにて とくともつきじとのべたまふ」
無尽の憶念の中に、ご報謝の人生が恵まれます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...