凡夫は、信じたようでも往生極楽の元手になるほど純粋な、一念の浄信をよういただかぬ。
「誓願不思議、極楽の道は一すじ南無阿弥陀」
と、南無阿弥陀佛のひとりばたらきを、ひとりばたらきさせておいたら、それが「弥陀をたのむ」とも、「弥陀にまかした」とも、「南無阿弥陀佛の独立」とも、また「広大無碍の一心」ともいうのである。
とかく自分がはかろうたならば、それは「凡夫自力のはからい」というもので、信心取ったと思うていても、大信心ではなくて、凡夫の思いであり、「つもり」である。「つもり安心」にては、大願清浄の報土に入ることはできぬ。
南無阿弥陀佛の「ひとりばたらき」は、私の煩悩も、疑いも、心も、身も、世界までも全滅して、ただ「ありがとうございます」とならせたもう「はたらき」である。「はたらき」とは「不可思議の誓願力」である。
如来様がはたらいてござるのに、凡夫がその上に、何をして、どういうはたらきをして往生しようと思うておるのであるか。
如来の大誓願力が我が往生、如来の大悲心が我が信心、如来招喚の勅命が南無の信心というものである。
「帰命(信心)は本願招喚の勅命なり」
と。ただ如来の誓願不思議力にて参らせていただくのである。ようまあ「ただ助くるぞ」の本願をお建てくだされたことよ、とよろこぶ他はない。
稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)
2 件のコメント:
ようまあ「ただ助くるぞ」の本願をお建てくだされたことよ、
とあります。
阿弥陀仏の本願をどのように話されるのか、とても重要なところです。
「我をたのめ、必ず助ける」
「必ず救う、我にまかせよ」
「我が名をとなえるばかりで助ける」
「あなたが仏にならなかったら、私も仏にならない」
「わしにまかせよ、必ず救う、心配するな、お前一人をきっと救う」
・・・・・集めているところです。
いいですねぇ。
「釈迦無礙のみことにて とくともつきじとのべたまふ」
無尽の憶念の中に、ご報謝の人生が恵まれます。
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