2023年6月5日月曜日

信心の中に生活がある

 禅宗では「さとり」が中心であり、いのちである。真宗では「信心」が中心であり、いのちである。
 今日宗教界を眺めると、中心を離れて、法門と宗教政治と、自坊の生活ということに流れているように見受けられる。これは情けないことである。信心に徹底せずして、妻子を持ち、肉を食うているのは、それは主客を顛倒しておるものである。これが末代の悲しい有様であろうか。

 真宗の信心は、その体、佛智なるが故に、大悲なるが故に、如来のまことなるが故に、それは必ず道徳生活にあらわれる。そのあらわれたところが俗諦である。
 信心の中に俗諦に出る力がこもっている。これが不思議である。ありがたいことである。信心の徳として俗諦が守られる。佛力によるものである。俗諦が守られないようでは佛法に瑕が付くと思って、否でも応でも努力し、精進して道徳を厳粛に守るよう心掛けねばならぬ。
 安心については、ただ佛力一つ、本願力一つである。凡夫のはからいは少しでもあってはならぬ。しかしこの世の生活では大いに努力して、世間の人から指を指されるような振る舞いがあってはならぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

俗諦が守られないようでは佛法に瑕が付くと思って、
とありますが、

瑕(きず)を付けるような振る舞いをしないようにと、
努力しなければなりません。

光瑞寺 さんのコメント...

如来様の御苦労をお聞かせいただいた上は、他人様の努力の様も少しは見えてくるように、これもお育てなのでしょう。勿体ないことです、佛法者らしい人間に育てようとしてくださっているようです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...