禅宗では「さとり」が中心であり、いのちである。真宗では「信心」が中心であり、いのちである。
今日宗教界を眺めると、中心を離れて、法門と宗教政治と、自坊の生活ということに流れているように見受けられる。これは情けないことである。信心に徹底せずして、妻子を持ち、肉を食うているのは、それは主客を顛倒しておるものである。これが末代の悲しい有様であろうか。
真宗の信心は、その体、佛智なるが故に、大悲なるが故に、如来のまことなるが故に、それは必ず道徳生活にあらわれる。そのあらわれたところが俗諦である。
信心の中に俗諦に出る力がこもっている。これが不思議である。ありがたいことである。信心の徳として俗諦が守られる。佛力によるものである。俗諦が守られないようでは佛法に瑕が付くと思って、否でも応でも努力し、精進して道徳を厳粛に守るよう心掛けねばならぬ。
安心については、ただ佛力一つ、本願力一つである。凡夫のはからいは少しでもあってはならぬ。しかしこの世の生活では大いに努力して、世間の人から指を指されるような振る舞いがあってはならぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第72号(1982年12月発行)
2 件のコメント:
俗諦が守られないようでは佛法に瑕が付くと思って、
とありますが、
瑕(きず)を付けるような振る舞いをしないようにと、
努力しなければなりません。
如来様の御苦労をお聞かせいただいた上は、他人様の努力の様も少しは見えてくるように、これもお育てなのでしょう。勿体ないことです、佛法者らしい人間に育てようとしてくださっているようです。
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