2023年8月5日土曜日

一分間も惜しんで佛法に

 安心の問題は、我れ人ともに、後生の一大事であるから、説く人も聞く人も、聞いた上に聞き、調べた上に調べて、少しも間違いのないように甚深、細心の注意と努力が必要である。
 そう思うと、一つのことでも、朝晩に考え考えして、何年何十年と研究しなければならぬ。もう自分は分かったというと、卒業免状でももらった気持ちで、安閑としておるような時間は、一日のうちに五分間もないはずである。五分間を惜しんで、佛道に、聞法に、思惟に、研究に心を入れるべきである。
 稼業を励みつつ、鍬を手にし、ご飯炊き、お勝手をしながらも、御恩を思い、よろこびよろこび、また、これではいかんと心に鞭を当てて精進しなければ、祖師聖人に対してあいすまん。

 『御本典』や『和讃』を頂いて、第一に思われることは、祖師の御苦労である。書物を書かぬ人は分からぬであろうが、読めば読むほど味があり、ただただ驚くばかり、あれほどのものが出来るのに、どれほど苦心惨憺せられ、読み直し、書き直し、一切経の閲覧まで、考えてみれば、五分間どころか、一分間も、夜の寝覚めにも思い思うて、九十年の結晶が、今日われらの頂くお聖教となったのである。
 それを思うと、食うものや、着るものや、住む家について、不足不満は勿体ない。また遊ぶ時間は一分間も出て来ぬではないか。電車の中でも書物は読める、字も書ける。思いを浄土に遊ばすことも出来るのである。あれしてこれしてと思うているうちに、五十年八十年の人間一生は、瞬く間に過ぎてしまう。

稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

卒業免状
とありますが、

真実は、私が分かったというのはありませんから、
卒業というのが無いのです。いつまでも法を赤子のように
聞かせていただけるのが有り難いことです。

光瑞寺 さんのコメント...

そうです、聞いて賢くなるのではありませんでした、気付かせていただきます。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...