安心の問題は、我れ人ともに、後生の一大事であるから、説く人も聞く人も、聞いた上に聞き、調べた上に調べて、少しも間違いのないように甚深、細心の注意と努力が必要である。
そう思うと、一つのことでも、朝晩に考え考えして、何年何十年と研究しなければならぬ。もう自分は分かったというと、卒業免状でももらった気持ちで、安閑としておるような時間は、一日のうちに五分間もないはずである。五分間を惜しんで、佛道に、聞法に、思惟に、研究に心を入れるべきである。
稼業を励みつつ、鍬を手にし、ご飯炊き、お勝手をしながらも、御恩を思い、よろこびよろこび、また、これではいかんと心に鞭を当てて精進しなければ、祖師聖人に対してあいすまん。
『御本典』や『和讃』を頂いて、第一に思われることは、祖師の御苦労である。書物を書かぬ人は分からぬであろうが、読めば読むほど味があり、ただただ驚くばかり、あれほどのものが出来るのに、どれほど苦心惨憺せられ、読み直し、書き直し、一切経の閲覧まで、考えてみれば、五分間どころか、一分間も、夜の寝覚めにも思い思うて、九十年の結晶が、今日われらの頂くお聖教となったのである。
それを思うと、食うものや、着るものや、住む家について、不足不満は勿体ない。また遊ぶ時間は一分間も出て来ぬではないか。電車の中でも書物は読める、字も書ける。思いを浄土に遊ばすことも出来るのである。あれしてこれしてと思うているうちに、五十年八十年の人間一生は、瞬く間に過ぎてしまう。
稲垣瑞劔師「法雷」第75号(1983年3月発行)
2 件のコメント:
卒業免状
とありますが、
真実は、私が分かったというのはありませんから、
卒業というのが無いのです。いつまでも法を赤子のように
聞かせていただけるのが有り難いことです。
そうです、聞いて賢くなるのではありませんでした、気付かせていただきます。
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