2024年1月30日火曜日

智願海と罪悪

 「弥陀の智願海は深広にして涯底なし」(礼讃)

と善導大師が仰せられた。
 自分の業海の深広にして涯底なきことを深く自覚して、右の御文をいただくと有り難く、値打ちがある。そうでない人には蛙の面に水であろう。
 佛教は知性だけに終わるべきものでない。知性に属するものであれば、科学と同様、外部から批判も受けるが、佛教は各自の自覚体験の大道であるから、外部からとやかくと批判しても当たらぬ。
 衆生の業海をひるがえして、如来の智願海と一味にするはたらきは、また弥陀の智願海である、本願一乗海である。如来にこのはたらきがあるから、信一念に愚悪の凡夫が助かってゆくのである。この他に衆生済度の方法はない。
 「業」の深さ広さは、とてもとても我らが想像以上のものがある。人間が一人一人地上に生まれてきた。それが「業」の然らしむるところである。業と自己の存在は同一である。その上に社会業もあれば、個人業もある。

 「罪」も同様、深く広くて限りがない。自己が存在しておることが罪である。否、存在しておると思う存在観念が、すでに迷心の致すところであって、罪の源である。それ故に聖人は、

 「とても地獄は一定すみかぞかし」

と仰せられたのである。

かぎりなき 大そらの智慧
 かぎりなき 大うみの慈悲
   われやすし
 つみもさわりも あるがままにて (瑞劔)

稲垣瑞劔師「法雷」第81号(1983年9月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「われやすし」とあります。
ここが有り難いですね。
衆生の業海が底も見えずに、沈み切っているままで、他力におまかせするよりほかはなく、何にもいらんとおっしゃってくださる。南無阿弥陀仏

光瑞寺 さんのコメント...

「衆生の業海」というお言葉、初めて聞きましたが、私たちが抱えている「罪業」とは底知れぬ海なのですね。
そんな不気味なものを抱えていることを信知せしめ、その丸ごとをさとりの徳へと転じてくださるのが阿弥陀様の願力である、とは、これも大きな大きな話です。

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