臨終には、久遠劫来の悪業煩悩が病苦と共に病人を苦しめる。心気朦朧として、ただ吐く息ばかりである。力も、智慧も、聞く耳さえ持たぬ。健康な時もそれに似たようなもので、実にあわれな、おろかな、いたずらものである。佛に成るためには、自分の力が少しも無いことは同然である。如来の本願は、このために起こったのである。
世の中には難しいものが沢山あるが、「死の解決」ほど難しいものはない。
火山の噴火も、洪水も、震災も大きな出来事である。然しながら、もっと自分にとって大きな問題は、自分が一人地球上から辞職して、死んで行くということである。
「独生独死、独去独来」は世の習い、「生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは遂に衰う」のは、因果必然の道理とはいいながら、現実に自分が今死んでゆくということは、これは対岸の火事ではない。これほど大きな問題は、宇宙間にまた二つとない。
人の死せんとするや、絶対絶望、絶対孤独、絶対闇黒、絶対恐怖である。自己が死ぬることは、天地一時に滅するよりも、もっと大きな問題である。
人間は生を欲し、死を怖れる。だからといって、死は共通の悲しき運命であると平然としておられるものかどうか、他人の死でない、自己の死である。一般論ではない、自己という生ける個人の問題である。これは議論で片付けられる問題ではない。
人間は「最高善に到達せよ」「智慧と慈悲を円満せよ」「大自由を獲得せよ」と、内心秘奥の或るものが叫び、叫び続けて止まない。それができないで死んでゆく、死の事実、自己の死の事実を如何にして解決するか。あきらめ主義では解決にならぬ。学問でも、思慮分別でも解決できない。不安と闇黒と恐怖のうちに死んでゆくのは解決ではない。
「今、臨終だ。さあ、どうするか。」
これを宿題として千辛万苦の末に、佛の教えに依りてのみ、之を解決して初めて「死の解決」といわれるのである。
「死の解決」は、凡夫の力ではいかん、必ず大聖釈迦牟尼世尊、近くは高祖親鸞聖人の御教えに依りてのみ、解決し得られるのである。
どの宗教も「死の解決」を説くのであるが、真に「死の解決」を為し得る宗教は、唯だ佛教あるのみである。唯だ浄土真宗、本願一乗あるのみである。
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
2 件のコメント:
「自己が死ぬることは、天地一時に滅するよりも、もっと大きな問題である。」
とあります。
誠に、阿弥陀さまに出遇わなかったら、この問題に苦しむのでしょう。
人生の目的は、限りないいのちとひかりに出遇うことです。
そうすれば、「死の解決」となります。
私などは、苦しんでいることも気付かぬまま苦しんでいたに違いありません。
限りないお恵みに遇いたてまつり、遠く宿縁を慶ばせていただくことです。
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