2024年2月5日月曜日

死の解決㈠

 臨終には、久遠劫来の悪業煩悩が病苦と共に病人を苦しめる。心気朦朧として、ただ吐く息ばかりである。力も、智慧も、聞く耳さえ持たぬ。健康な時もそれに似たようなもので、実にあわれな、おろかな、いたずらものである。佛に成るためには、自分の力が少しも無いことは同然である。如来の本願は、このために起こったのである。
  
 世の中には難しいものが沢山あるが、「死の解決」ほど難しいものはない。
 火山の噴火も、洪水も、震災も大きな出来事である。然しながら、もっと自分にとって大きな問題は、自分が一人地球上から辞職して、死んで行くということである。
 「独生独死、独去独来」は世の習い、「生あるものは必ず死に帰し、盛んなるものは遂に衰う」のは、因果必然の道理とはいいながら、現実に自分が今死んでゆくということは、これは対岸の火事ではない。これほど大きな問題は、宇宙間にまた二つとない。

 人の死せんとするや、絶対絶望、絶対孤独、絶対闇黒、絶対恐怖である。自己が死ぬることは、天地一時に滅するよりも、もっと大きな問題である。

 人間は生を欲し、死を怖れる。だからといって、死は共通の悲しき運命であると平然としておられるものかどうか、他人の死でない、自己の死である。一般論ではない、自己という生ける個人の問題である。これは議論で片付けられる問題ではない。

 人間は「最高善に到達せよ」「智慧と慈悲を円満せよ」「大自由を獲得せよ」と、内心秘奥の或るものが叫び、叫び続けて止まない。それができないで死んでゆく、死の事実、自己の死の事実を如何にして解決するか。あきらめ主義では解決にならぬ。学問でも、思慮分別でも解決できない。不安と闇黒と恐怖のうちに死んでゆくのは解決ではない。

 「今、臨終だ。さあ、どうするか。」

 これを宿題として千辛万苦の末に、佛の教えに依りてのみ、之を解決して初めて「死の解決」といわれるのである。
 「死の解決」は、凡夫の力ではいかん、必ず大聖釈迦牟尼世尊、近くは高祖親鸞聖人の御教えに依りてのみ、解決し得られるのである。
 どの宗教も「死の解決」を説くのであるが、真に「死の解決」を為し得る宗教は、唯だ佛教あるのみである。唯だ浄土真宗、本願一乗あるのみである。

稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「自己が死ぬることは、天地一時に滅するよりも、もっと大きな問題である。」
とあります。

誠に、阿弥陀さまに出遇わなかったら、この問題に苦しむのでしょう。
人生の目的は、限りないいのちとひかりに出遇うことです。
そうすれば、「死の解決」となります。

光瑞寺 さんのコメント...

私などは、苦しんでいることも気付かぬまま苦しんでいたに違いありません。
限りないお恵みに遇いたてまつり、遠く宿縁を慶ばせていただくことです。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...