こちらが心を用いず、力を用いずして、助かる法が南無阿弥陀佛の本願力のよび声である。
顔をするのがいかん、ありのままがよい。生地のままがよい。信者顔、心得顔、学者顔、善人顔、顔をするのは、メッキかペンキ塗りである。狐や狸は人を騙すものであるそうだが、一番自分を騙すものは、自分の心である。
「大風に 灰を撒いたる 我が心」を忘れると、つい自分の心が自分を騙す。博士になって書物を書いて、人に説教すると、つい自分が偉い者になったような気がするものである。佛法の上では、それが心を騙したというものである。佛法の上では、いつ見ても、
「往生ほどの一大事、凡夫のはかろうべきことにあらず、
ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」(執持鈔)
を忘れぬことが肝要である。
「死の解決」は、如来様が一切衆生の為に「死の解決」をして下さって、正覚を成ぜられた「大正覚」が、そのまま、今、私の「死の解決」である。
わき見をするのがいかん。隣の花は赤く咲く。
妙好人を見て、あの人のようになりたいと思うのがいかん。凡夫はあんなに美しいものではない。鶴の脚は長いなり、鴨の脚は短いなりでよい。
こう成って参ろうがいかん。自分の思うように、自分の心が成ってくれぬ。成ったところで、また変わる。
「人心 池の水にも 似たりけり
にごり澄むこと さだめなければ」(法然上人)
死を遠いところにおいておくからいかん。今、臨終と思えば、臨終に「ああなって参ろう」「こうなって参ろう」と思うかどうか。どうにもこうにもならぬ、罪業深重の自分が、死を待っておるのみでないか。法門沙汰は、もう間に合わぬ。自分の思いは間に合わぬ。落ちる私と、落ちつつある私を「そのまま」助けたもう如来様とがあるのみである。
祖師聖人の命がけのお言葉は、末代の衆生、一人でも多く往生してくれよの大悲の念願より書き出されたところの、
「難思の弘誓は難度海を度する大船、
無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」
の一句である。この一句のうちに、聖人の法身たる『教行信証』がこもっておる。一生涯かかって此の聖句を味わうがよい。
稲垣瑞劔師「法雷」第82号(1983年10月発行)
2 件のコメント:
「難思の弘誓」「無碍の光明」とあります。
どこどこまでも、仏様の一人ばたらきであります。だから「死の解決」もおまかせで、生きてよし死んでよしと心配がなくなります。
人の言葉を聞いては心乱され、自分の心を見ては欺かれしていますが、いつのまにやら自分も人もお客様になり、如来様がひとりはたらいてくださって、ひとり舞台になってくださっています。
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