私は、いくら聞いても、いくら書物を読んでも、思うても、煩悶しても、参れそうなところは、自分に一つも見付からぬ。落ちるより仕方がない。「落ちるより仕方がない」が徹底した時が、「本願力は大きいでなあ」が聞こえてきた時である。
信心は、自分の力で、自分で極めるものではない。自分としては、理屈も道理もない。阿弥陀さまがお助け下さるから、助かるのである。如来様が「心配するな南無阿弥陀佛」と喚んでくださるから、参られぬ者が参られるのである。そこには道理理屈はない。ただただ如来様の本願力である。
「心配するな南無阿弥陀佛」ということが「本願力」である。南無阿弥陀佛である。また「本願招喚の勅命」である。
本願力にて往生するのである。南無阿弥陀佛にて往生するのである。自分の思いでは参られぬ。自分の思いは凡心である、妄念である。本願力は佛心であり、佛智であり、佛力である。信巻に曰く、
「佛力難思なれば古今も未だ有らず」
と。末代今の世にも不思議なことがあるものだ。不思議の中の不思議は、本願力の不思議である。この私がお浄土へ参らせていただくことである。
稲垣瑞劔師「法雷」第83号(1983年11月発行)
2 件のコメント:
「佛力難思なれば古今も未だ有らず」
とあります。
現代語訳では、
禅宗の智覚が『楽邦文類』に、念仏の行者をほめていっている。
「不可思議なことである。仏の力は思いも及ばないものであり、いまだかつてない尊いものである」
とあります。
宗祖はこの御文を「信巻」真佛弟子釈に引かれる。
念佛の行者を讃めておられる文脈でありながら、内容は佛力の超勝であります。
本願力が、佛智不思議のご本願のままに、行者を動かし、真生命を与えておられるのであります。
コメントを投稿