蓮如上人は『和讃』の、
「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」
の心をいただかれて、「さてさて、あらおもしろや、おもしろや」とくれぐれ仰せられたのでありますが、この法悦三昧の境にあって、如来行にいそしむのは、浮世の寿命を「法の寿命(のりのいのち)」として慶ぶのであります。
たとい未来は極楽の宝国に入る身に決まっているからとて、前生よりさだまれる死期を急ぐといったようなことは、却って心まどえるものというべきであります。
何人によらず、今日まで生き長らえさせていただいた所詮には、人としての道もできるだけ立派に務めようと心がけなければなりません。自分の機様と、自分の力量とをよくよく見つめて、如来の前に自分の善も悪も、智慧も愚痴もともにこれを投げすて、ただただ如来の本願の尊さを仰ぐ身になれば、自然に修まりがたき善も少しずつ修まり、廃しがたき悪も少しずつ止まります。
信心の生活はすなわち道徳生活であり、道徳は信心の上にあらわるる徳であるとはいえ、信後には何ら道徳上の心得は要らないというのでなく、ますます佛恩報謝のため王法為本のみ教えを奉体(ほうたい=奉戴)して、仁義をもって先とすべきであります。
『大無量寿経』に言く
「寿命甚だ得難く佛世また値ひ難し。人信慧有ること難し。若し聞かば精進して求めよ」
「汝、今また自ら生死老病の痛苦を厭う可し。悪露不浄にして楽しむべきもの無し。宜しく自ら決断し、身を端し行を正し、ますます諸善を作し、己を修め体を潔くし、心垢を洗除し、言行忠信にして表裏相応すべし。人能く自ら度し、転た相拯済し、精明に求願して善本を積累せよ。一世を勤苦すといえども須臾の間なり」
「汝ら是に於て広く徳本を植えて、恩を布き恵を施して、道禁を犯すことなかれ。忍辱・精進、一心智慧をもって転た相教化し、徳を為し善を立てよ。正心正意にして斎戒清浄すること一日一夜すれば、無量寿国に在りて善を為すこと百歳するに勝れり」
と仰せられてあります。はげしき無常の風にも誘われずして、今日まで命長らえししるしには、如来のみ教えをも聞き、御摂護をもよろこび、御冥見に愧じ、法の為、社会の為、この世にあらん限り尽すところなくてはなりません。
ー 桂利劔師の法語
稲垣瑞劔師「法雷」第84号(1983年12月発行)
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