2024年7月5日金曜日

道は一すじ

 心の病気

 師匠につかぬと、心の病気が治らぬ。凡夫は知らず知らずに、多く聞き、多く読み、涅槃のために役に立たぬことを、かれこれとはかろうておる。その病気を治してくださるのが師匠である。吹いたら飛ぶような学問では、死出の山路の関所は通られぬ。
  

 命のつな

 凡夫の力では、とても「本願力一つ」に眼がつかぬ。命のつなは、ただ一本である。千万年考えても、深いことを知っても、自身の往生のためには何の役にも立たぬ。
  

 自力と他力

 自力の修業というのは、凡夫が佛に成る道程である。他力とは、佛に成った阿弥陀如来の本願力である。名号の功徳は無尽で、如来の智慧海は大きくて底知れぬ。
  

 第十八願の声

 本願とは第十八願である。力とは南無阿弥陀佛という正覚の威神功徳力である。それが一つになったのを「本願力」という。本願力と佛智不思議とは一つである。佛智不思議によって本願力の不思議がある。「若不生者 不取正覚」の本願はよびごえである。二利円満の正覚の声である。正覚の功徳力を信じたのを「よびごえを聞いた」という。
  

 何がむつかしいか

 何がむつかしいかというたところで、佛を凡夫に知らせるほど難しいことはない。久遠実成の阿弥陀佛は、南無阿弥陀佛という本願を建てて喚んでくだされている。佛に衆生を助くる大智大悲と、本願力がある。凡夫には分からぬ。分からぬのが事実である。如来の照育によって、それが信ぜられる。

稲垣瑞劔師「法雷」第85号(1984年1月発行)

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よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...