2024年7月15日月曜日

み佛に 見られ知られて うれし慚し


 信者は、自分の身を省みては慚じ、法徳を仰いでは慶ぶ。無慚無愧のものは人間とは言われぬ。

  無慚無愧のこの身にて
   まことのこころはなけれども
   弥陀の回向の御名なれば
   功徳は十方にみちたまふ

 南無阿弥陀佛は弥陀回向の法であるから、その功徳を思わなくてはならぬ。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「南無阿弥陀佛は弥陀回向の法である」とあります。

御名号は阿弥陀様が衆生にさし向けてくださっている法である。
ということですが、ここの「法」は、真理という意味が合うように
思ってます。

光瑞寺 さんのコメント...

「法」という語も、含む意味が多いのですが、ここの衆生と御名号を「機」「法」の対比と見るなら、「衆生救済の大行」という「法」のように思われます。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...