信者は、自分の身を省みては慚じ、法徳を仰いでは慶ぶ。無慚無愧のものは人間とは言われぬ。
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
南無阿弥陀佛は弥陀回向の法であるから、その功徳を思わなくてはならぬ。
稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)
六、称名念佛をはげむ人 滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身 (いっぽっしん) の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌...
2 件のコメント:
「南無阿弥陀佛は弥陀回向の法である」とあります。
御名号は阿弥陀様が衆生にさし向けてくださっている法である。
ということですが、ここの「法」は、真理という意味が合うように
思ってます。
「法」という語も、含む意味が多いのですが、ここの衆生と御名号を「機」「法」の対比と見るなら、「衆生救済の大行」という「法」のように思われます。
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