稲垣瑞劔師(明治18年~昭和56年)のお言葉を通して阿弥陀さまのお慈悲を味わってまいります
信者は、自分の身を省みては慚じ、法徳を仰いでは慶ぶ。無慚無愧のものは人間とは言われぬ。
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども 弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
「南無阿弥陀佛は弥陀回向の法である」とあります。御名号は阿弥陀様が衆生にさし向けてくださっている法である。ということですが、ここの「法」は、真理という意味が合うように思ってます。
「法」という語も、含む意味が多いのですが、ここの衆生と御名号を「機」「法」の対比と見るなら、「衆生救済の大行」という「法」のように思われます。
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四、死と組み打ちして 「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。 ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...
2 件のコメント:
「南無阿弥陀佛は弥陀回向の法である」とあります。
御名号は阿弥陀様が衆生にさし向けてくださっている法である。
ということですが、ここの「法」は、真理という意味が合うように
思ってます。
「法」という語も、含む意味が多いのですが、ここの衆生と御名号を「機」「法」の対比と見るなら、「衆生救済の大行」という「法」のように思われます。
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