2019年6月29日土曜日
2019年6月16日日曜日
聖典
お釈迦様や、高僧方の書物は浮世の書物とちがって、一ぺんや十ぺんや、三年や五年で、たとい一枚の教語でも、わかるものでない。法然上人の一枚起請文でも、源信和尚の横川法語でも、蓮如上人の末代無智の御文章でも、聖人一流の御文章でも、いずれも一枚に足らぬ短いものであるが、あれが三年や五年でわかる人はあるまい。後生の問題が苦になってから二十年位して、やっとわかるのがふつうである。うかうかしておっては一生涯わからずに終わるのである。真剣にならねば佛法はわからぬというのはこの事である。
稲垣瑞劔師 「法雷」創刊号(1977年1月発行)
2019年6月12日水曜日
2019年6月10日月曜日
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佛法を聞くのには、「不惜身命」と言われてあるが、この世の苦労と心配事が常に佛法に精進する心を鈍らすものである。然しながら、その人間苦の中から、大悲のみ親の「我れ能く汝を護らん」という力強い声を聞くことは、慶びの中の慶びである。 常に「盛者必衰、会者定離」と覚悟を決めておること...
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さらに道元禅師は「生死」の巻に曰く、 「これをいといすてんとすれば、すなわち佛の御いのちをうしなわんとするなり。これにとどまりて、生死に著すれば、これも佛の御いのちをうしなうなり。佛のありさまをとどむるなり。いとうことなく、したうことなき、このとき、はじめて佛のこころに入る...
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露の命であるから、自分の生死の問題は急を要する。地獄の猛火がひざの下から、えんえんと燃え上がっておる。その中で佛法を聞く。 その瞬間に佛法の真味を体得せねばならぬ。それは、如来の大慈悲本願力を、しみじみ感ずることである。 稲垣瑞劔師「法雷」第90号(1984年6月発行)