夢の世に夢ならざるものが一つある。それは佛語である。
苦しみの底に光っておるものが一つある。それは願力摂取の光に裏付けられたる「今暫くの辛抱」である。
「実語甚だ微妙なり。甚深秘密の蔵なり」
と『涅槃経』に説かれてあるが、成る程そうだとうなづける。それが簡単なる佛語であっても、佛様の言葉である限り、その一語の中にも無量の意味がこもっておる。まことに甚深微妙である。
「本願力」という言葉を頂いても、「法身の光輪」という言葉を拝見しても、懐かしさ、有り難さ、忝さが無限に感ぜられる。
同時に、知性の上から言っても、法界の真理・真如法性の大虚空が、その言葉の中に満ちており、流れており、摂まっており、溢れており、光っており、躍動しておるのが感ぜられる。つまり大智大悲の一大生命の脈動を感受せしめられるのである。
一語・一句・一偈といった小さな管を通して、広大無辺なる一大法界、深広無涯底の如来の智願海がのぞき見られることは、何ともかとも言うことの出来ない慶びであり、楽しみであり、また希望である。
有限の管から無限をのぞき見、極小のうちに極大を窺うことができることは、何とも言えぬおもしろさ、愉快さである。
こういう愉快さ、朗らかさは、現代人のごとく何事も割り切らなければ承知がならぬという人たちには、とても分からぬ境地であろう。
稲垣瑞劔師「法雷」第10号(1977年10月発行)
2 件のコメント:
「有限の管から無限をのぞき見、・・・」とありますが、
無限のイノチとの出遇いがなければ救われません。
ひとたび無限のイノチに出遇えば、心は浄土に遊ぶなりと味わせていただきました。
「曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところ余の楽しみなし。」(定善義)
そのような中にあって、超世の悲願を聞き得たのですね。
「蟪蛄春秋を識らず」、己の有限を知ることも、佛の無限を知ることも、私の力ではありませんでした。
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