2020年6月18日木曜日

お寺だより 14

お寺だより(平成24年6月発行)

一年ご無沙汰したと思えば二ヶ月連続、お寺だよりをお届けします。
 

  5月22日・23日  永代経法要


 初日は「節談(ふしだん)」風のご法話でした。節談説教とは、難しい教えを節回しに乗せた易しい言葉で語る、浄土真宗の伝統的な話法です。落語などの話芸の原型とも言われます。
 当光瑞寺では初めてのことで、ご講師には丹波篠山から松島法城(まつしまほうじょう)先生にお出で頂きました。
 
 お話し下さったのは、先生の定番の一つ、『大厳師と針水和上』。

 江戸時代の学僧、宮内大厳(みやうちだいごん)は、数奇な出生から、やがて京都で学成り、信望を得て、山口教專寺の住職に迎えられます。
 ところが、お念佛を大切にされるご態度が、断固として揺るぎ無いものだったため、周囲から「大厳は親鸞聖人ご相伝の宗義に反した〈称名正因の邪義〉に陥ったのでは」との疑いが掛けられます。 

  • 称名正因の邪義(しょうみょうしょういんのじゃぎ)…信心をもって本とする信心正因が聖人一流の御勧化の趣旨である。しかるにその信心を軽んじ、「念佛を多く称えることが浄土へ往生する正因だ」と誤ること

 
 そしてその調査のために京都本願寺より派遣されたのが当代随一の傑僧、原口針水(はらぐちしんすい)和上でした。
 
 表に現れる態度だけで、内なる信仰の邪正を判断する難しさ、しかも、心得違いが蔓延(はびこ)れば、一宗の信仰の礎が崩れかねません。
 この重責を負うて問い糾す針水和上。大厳師もまた、その並みならぬ胸の中を、七言絶句で答えます。
 
罔極佛恩報謝情(もうぎょくのぶっとんほうしゃのおもい)
清晨幽夜但称名(せいしんゆうや ただしょうみょう)
堪歓吾唱雖吾聴(よろこびにたへたり われとなへ われきくなれど)
此是大悲招喚声(これはこれ だいひしょうかんのこえ)


極まりない佛恩報謝の情より、清々しい朝から閑かな夜に至るまで、ただひたすらに念佛をお称えする。
抑えようとしても抑えきれぬ歓びが、私の口を吐
(つ)き、念佛となって出て下さる。
私が称え、それを聴くのも私であるが、
これはまぎれもなく、「お前を落としはせぬぞ」と私を招き喚んで下さっている阿弥陀如来の大悲の声。



 この口を通して、「お前を救う」と喚んで下さる、如来の大慈悲の忝なさよ。大厳、お前の称える念佛は、己の手柄でも、如来へのご機嫌取りでもなかった、喚ばれるままに称えていた、その姿なのだな!「往生の正因は喚び声一つ」と聞いてくれた、それでこそ我らは当来の親友ぞ!
 
 佛恩溢れる一句に打たれた針水和上、この詩に一首の賛を添えます。
 
「われとなえ われ聞くなれど これはこれ つれてゆくぞの 弥陀のよびごえ」
 
 迷いの生死の打ち止めを、どこに肚(はら)(す)えるか。
 問うに値する人物がこれを問うてきた、だから私も畢生の大事(ひっせいのだいじ)としてこれに答えよう。
 
 この渾身のやりとりに、活きた本願力の躍動を感じます。
 

 初日は30名近くのお参りがあり、その中には初めてお寺に来て下さった方もいらっしゃいました。
 「大行・大信(だいぎょう・だいしん)」「信不退・行不退(しんふたい・ぎょうふたい)」など、耳慣れない言葉もありますが、こういった専門用語が理解できますと、味わいが一層深まります。


 二日目は勤行の後、「正信念佛偈」の写経をしました。
これも当寺では初めての開催。お手本通りなぞるだけと思って住職も初挑戦しましたが、意外と難しい。
 これは真剣に…と取り組んでいましたが、一時間もすると、目も疲れたし根気も続かないってことで、歓談しながらの、和気藹々とした写経会になりました。

 短時間でも一字一字に集中する、そういう機会が重なって、やがて習慣になればと思います。今後もよろしくお願い致します。    
合掌

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

信者めぐり:三田老人求道物語の書籍には、
肥後原口針水師の法話のところに、
「我れ称へ我きくなれど南阿弥陀 つれて行ぞの親のよび声」
とありました。

光瑞寺 さんのコメント...

「われ称へ われ聞くなれど」
の歌は種々に伝えられています。私も最初は
「つれてゆくぞの 親のよび声」
とお聞きしました。

初めての節談説教でしたが、難しい内容も聞きやすくて、伝道方法としてもすぐれていると思いました。

土見誠輝 さんのコメント...

「我れ称へ我きくなれど南阿弥陀 つれて行ぞの親のよび声」
一字誤っていました。

「我れ称へ我きくなれど南無阿弥陀 つれて行ぞの親のよび声」
すみませんでした。

死の解決㈢

 世の人は「救い」「救い」と言っておるが、「救い」とは何であるか、殆どすべての人が「救い」を知らない。死を宣告された人から見ると、五欲街道の修理は「救い」でない。  真の救いは、救う人と同じ境地に到達してこそ「救われた」と言えるのである。あるいは、救う人の境地に必ず行けるという大...