- 佛様は尊い、この一事がわからなければ万巻の書を読み、何十年の聴聞も、すべて水の泡である。佛法と浮世とは訳が違う、佛法は生死解脱の一大事、この世の知恵も力も何の役にも立たぬ。
- 自分は思うておる、知っておるではあかん、凡夫としてはそらごと、たわごと、まことあることなし。往生の一段には凡夫の善悪なし、この世八十年の人生には善悪あり。ここのところをよくわきまえよ。
- 「ほっておいてくれと言われたとてほっておかれぬ親心、どうぞ私に助けさせておくれ」と親様が仰せられる。今死ぬるとなったら聞いたことが役に立つか、聞かぬ昔のまま「待ってござる」親の許に呼びつけられるのである。
- 何を聞いたかと問われたら、「何にも聞いておりません、阿弥陀さまはありがたいですなあ」と何で言わんか。どの師匠からどういう事を聞いたか、返事が出来ぬようなことではあかんぞよ、あかんぞよ。
- 自分が直ちに本願名号を信じようとしても、おおかたそれは駄目である。高僧方の人格に触れ、そのお言葉を信じてこそ本願名号は信ぜられるものである。
- そのまま来たれの勅命をそのまま聞いて、いや、聞いてじゃない、声に引かれて参るのである。いつもよびごえ、いつもお助け、あらありがたやありがたや。
稲垣瑞劔師「法雷」第16号(1978年4月発行)
2 件のコメント:
いずれも有り難いお言葉です。5番目の
「高僧方の人格に触れ、そのお言葉を信じてこそ本願名号は信ぜられるものである。」
を取り上げます。
正信偈の「応信如来如実言」の言葉であると思いました。
真実の言葉を信じるだけで救われるのが、浄土真宗です。
このお言葉には、私にも思い当たるエピソードがあります。
明治十八年生まれの瑞劔師が35歳頃、岡英俊という僧侶からお聞きしたということです。
岡英俊師は、石屋川の土手にバラック小屋を建てて住んでおられたが、晩年は胃がんに罹られた。
その名前を聞いていた瑞劔師は、近隣の僧侶が見舞いに行くというので同行した。勉強のしすぎで失明されたという岡師だが、瑞劔師が座敷に入ると「稲垣さん、ひと月遅いわい。もうものも言われへん。もう一月早う来てくれとったら、私の持っとるもの、学問と御安心とをあんたに伝えておくのに」と言われた。
その日は五分間ほど話し、「また来てくれ」と言われ、また行くと今度は三分間、最後は一分間しか話が出来なかった。
そうして話された中で、
「私は、親鸞聖人を信ずるが故に『大無量寿経』を信じます。
『大無量寿経』を信ずるが故に、本願名号を信じます。」
とお聞きした、ということです。
「信心というものは、道理理屈でない。〈人格〉を信ずるというところから、信心が頂ける。理屈を言いかけた切りがない、人の言葉なんて凡夫の理屈からいうと〈そんなことあるかい〉てなもんや。けれど親鸞聖人を信じておる、〈親鸞聖人がこう仰った〉というので、我々は道理理屈を抜きにして信ずることが出来る。
人を信ぜずして信心を頂こうと思うたら、それは間違いや。何ぼよい説教聞いて、何ぼ本を読んで難しいことを覚えたところで、信心は別や。人間を信ぜなんだら、信心は頂けぬ。」
―「法雷」第404号(2010年8月号)より
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