2020年11月12日木曜日

願土にいたればすみやかに

 佛教は単に死の解決のみではない。また単に安心立命のみでない。
 宇宙人生の問題を根本的に解決し、迷悟染浄の因縁を明らめ尽くされた、大覚 釈迦牟尼世尊の教法に順って、各自が釈迦牟尼世尊の到達了悟せられた大涅槃境に入るための教法であり、教道である。
 また如来悲智の活動の流れに乗じて、その同一の活動をする身に成るのが佛教である。

 死は一つの関門であるが、生存中に「大涅槃に必ず到り得る」という自覚と保証が与えられるのが、現生における本願力回向の利益である。大涅槃に到りてここに志願満足し、利他の行を行ずることが出来る。これすなわち菩薩の境界である。

稲垣瑞劔師「法雷」第18号(1978年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

仏教の特色は「迷悟染浄の因縁」とありました。
言われてみればそのとおりなのでしょうが、あまり御聖教で見かけることが
無かったので、少し調べてみました。

『顕名鈔』に
「迷悟・染浄、一切の万法ことごとく阿弥陀の三字に摂在せずといふことなし。」
とあり、存覚上人のお言葉ですが、こちらの方がしっくりとします。
すべて抱きとられているのです。

光瑞寺 さんのコメント...

「迷悟染浄の因縁」という表現、お聖教にはないのですね。
瑞劔師の著述ではよく出るので慣れていましたが、もとは余宗(天台宗や禅宗など)の典籍に出ているのかもしれません。
『顕名鈔』は天台宗を意識して書かれたものでしょうか、「本有の理性をわすれ」や「衆生もかの寿命よりいでて」など、真宗の頭では読みにくい表現も用いられていますね。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...