自分が今、死にがけの大病人であるということを、深く、真剣に思うて成就文をいただくと、
言うこともなく、
思うこともなく、
為すこともなく、
「信心」という言葉さえ忘れて、ただ
如来様がありがたい、
南無阿弥陀佛がありがたい、
大悲の本願がありがたい、
「そのまま助くるぞ」の勅命が
ありたがたくなる。
これは、如来の大悲心が、自分の心に徹ったしるしである。
如来の大悲心が徹到したほかに、信心はあり得ない。
稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)
六、称名念佛をはげむ人 滋賀県にある一人のお坊さんがおられる。なかなか立派な、まじめな御僧である。そのお方は、第十八願の純粋他力の信心を長い間求められたが、どうしても「佛智即行」とか「尽十方無碍光如来一法身 (いっぽっしん) の独立」とか「本願力一つ」とか、また法然上人のお歌...
2 件のコメント:
勅命を国語辞典で調べると、
天皇の命令、天子の命令、みことのり、などとありました。
ずべてを度外視して、命令されているので、絶対に従うしか
ないし、すべてのものが従わさせられるのです。
単なる強権ではなく、「すべてを度外視して」、そこに佛智の尊さを仰がせていただきます。
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