2021年1月6日水曜日

ただ「如来様」が、「本願」が、「勅命」がありがたい

 自分が今、死にがけの大病人であるということを、深く、真剣に思うて成就文をいただくと、

 言うこともなく、

 思うこともなく、

 為すこともなく、

「信心」という言葉さえ忘れて、ただ

 如来様がありがたい、

 南無阿弥陀佛がありがたい、

 大悲の本願がありがたい、

 「そのまま助くるぞ」の勅命が

ありたがたくなる。

 これは、如来の大悲心が、自分の心に徹ったしるしである。
 如来の大悲心が徹到したほかに、信心はあり得ない。

稲垣瑞劔師「法雷」第20号(1978年8月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

勅命を国語辞典で調べると、
天皇の命令、天子の命令、みことのり、などとありました。

ずべてを度外視して、命令されているので、絶対に従うしか
ないし、すべてのものが従わさせられるのです。

光瑞寺 さんのコメント...

単なる強権ではなく、「すべてを度外視して」、そこに佛智の尊さを仰がせていただきます。

和讃と歎異抄の味わい⑹

 四、死と組み打ちして  「語中に語無し」じゃ。「ただ念佛して」とあるからといって、本願のいわれも聞き開くこともなく、ただ口に念佛ばかり称えては、その人の往生は果たしてどうであろうか。  ある人はただ念佛して直ぐ如来の大悲心を感得し、めでたく往生する人もあろうが、またある人は念佛...