2024年8月15日木曜日

随想録

  佛力をいただく

 聖道門の悟りは、世界と自分とを二つに見ぬ世界である。凡夫が三毒の生活をやっておるうちは、絶対に悟られぬ。信心とは、迷いの世界におりながら、佛智の不思議を信じて、生死の苦海を超断することの出来る佛力をいただいたことである。

  だまされるな

 自分の心や人の言葉にだまされぬようにせねばならぬ。自分の方に自力心があり、欲があり、病気の時や困った時に祈祷するような心があると、だまされる。他力の教えを聞いても、自力の心で受け取るものだから、他力のことばが、自分のはからいになってしまう。
 

  自分の心に相手にならぬ

 佛法の世界には、自分でいばるところがない。また卑下することもなくなる。善悪にとらわれず、しかも自身が流転の凡夫たることを知らされる。本願力は、自分の心に相手にならぬようにしてくださる。それは、凡夫の小智を小智と知らされたからである。如来の大智は「空」「無我」をさとり、「大慈悲」を生み出すところの智慧である。この大智海より、「若不生者」の本願が生まれる。
 

  光寿二無量のはたらき

 万法は一如である。一如の世界は佛智のみがこれを体解したもう。一如は法界であり、法身佛である。一如の世界から阿弥陀佛が出てくださる。光寿二無量のはたらきを以て衆生を摂化したもう。

  人生の大事畢る

 信心の世界は、向上向下一時になげ捨てた境地である。願力のうちに信心を決定し、生死の海を超断し、人生の大事がここに畢ったからである。人間が迷いの世界において、たとえ多くを知ったとて、相対の智慧である。
 善いことをしたとて、無明の皮を被った雑毒の心であり、絶対の真実心ではない。それを鼻に掛けて何になるか。ただ如来の勅命に信順すれば、信心の徳として、人間の道は践み行わせていただく。とりつめて言えば、真(信心)俗(道徳)一諦である。
 

  信の力の生活

 信心の人は、信の力の生活である。それが、凡夫の業の世界を浄化してくれる。自分の力ではない。
 
稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

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よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...