佛力をいただく
聖道門の悟りは、世界と自分とを二つに見ぬ世界である。凡夫が三毒の生活をやっておるうちは、絶対に悟られぬ。信心とは、迷いの世界におりながら、佛智の不思議を信じて、生死の苦海を超断することの出来る佛力をいただいたことである。
だまされるな
自分の心や人の言葉にだまされぬようにせねばならぬ。自分の方に自力心があり、欲があり、病気の時や困った時に祈祷するような心があると、だまされる。他力の教えを聞いても、自力の心で受け取るものだから、他力のことばが、自分のはからいになってしまう。
自分の心に相手にならぬ
佛法の世界には、自分でいばるところがない。また卑下することもなくなる。善悪にとらわれず、しかも自身が流転の凡夫たることを知らされる。本願力は、自分の心に相手にならぬようにしてくださる。それは、凡夫の小智を小智と知らされたからである。如来の大智は「空」「無我」をさとり、「大慈悲」を生み出すところの智慧である。この大智海より、「若不生者」の本願が生まれる。
光寿二無量のはたらき
万法は一如である。一如の世界は佛智のみがこれを体解したもう。一如は法界であり、法身佛である。一如の世界から阿弥陀佛が出てくださる。光寿二無量のはたらきを以て衆生を摂化したもう。
人生の大事畢る
信心の世界は、向上向下一時になげ捨てた境地である。願力のうちに信心を決定し、生死の海を超断し、人生の大事がここに畢ったからである。人間が迷いの世界において、たとえ多くを知ったとて、相対の智慧である。
善いことをしたとて、無明の皮を被った雑毒の心であり、絶対の真実心ではない。それを鼻に掛けて何になるか。ただ如来の勅命に信順すれば、信心の徳として、人間の道は践み行わせていただく。とりつめて言えば、真(信心)俗(道徳)一諦である。
信の力の生活
信心の人は、信の力の生活である。それが、凡夫の業の世界を浄化してくれる。自分の力ではない。
稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)
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