2024年8月10日土曜日

ただ仰ぐ

 心も変化すれば、身も変化する。また世界も変化して一瞬も停止しない。変化のうちに安心立命はない。変化は変化のまま捨てておいて、すべてを如来の大慈悲にまかすところに安心がある、安堵がある。まかし得ざる私はどうすればよいのでしょうか。

 ただ仰げ、ただ信ぜよ。佛に無量の功徳あり、佛に無量の力あり。佛に大智大悲の誓願力がある。古の高僧方は、自己の修行も学問も、善根功徳をも、それらを極小に見て、大善大功徳ある佛の力のみを仰がれた。

 「佛は、何という大功徳の方であるものよ」

と仰ぎ仰ぎてあきれ果てられたのである。このすがたこそ、信じたすがたであり、まかしたすがたである。

 「無我」になろうと思って「無我」になれるものでなし、福を得るために「善」をしようと思っても、その心が早や汚れておる。信心しようと思っても信じられるものでない。ただ佛とは大功徳者なりと知(信知)れば、それが信心である。感ずれば、それが信心である。そこに如来と我と感応道交して、生死をはなれ、一切の苦厄を度したまう。佛の中に、我が欲する一切のものを見出だす。ここに於いてか至難なる安心立命もできるのである。

 病床も、佛の大悲心中の病床と思えば、くるしみを超えて、喜びが溢れる。
 無量の功徳の浄き月影、一輪高く、心の天に常に輝いておる。念々、これを仰ぐところ、念々安心立命がある。
 一念の浄信(佛をあて力にすること)は、道の元、功徳の母であるから、あらゆる道徳を実践せしめずにはおかない。それも、「その日その日の花の出来」と思えば心は安らかである。
 佛と我と、同死同生、親の功徳は子の功徳、まことに不可思議の妙諦である。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

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生死は佛の御いのち㈢

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