2024年8月5日月曜日

動きなき 佛の心 仰ぎなば 動きどおしの わがこころ見ゆ


 人は何れの処に向かってか安心立命しようとしておるのであるか。心は一秒ごとに変化して、しばらくも静止しない。これ意識流の実相である。取るべき心もなく、捨てるべき心もなく、過去心も手には取れず、現在心も影法師、未来心も泡沫の如きものである。どの心を以て、どの心に安心立命をしようとするのであろうか。

 身は是れ無常。生あれば死がある。生が死になるのではない。生も一時の変化状態なれば死もまた一時の変化である。生死は生死のままにさせておけば、それでよいではないか。生死を食い止めようと思っても、百万人の力を以てしても如何ともしがたいではないか。
 佛の大慈悲心の流れのうちの生死と思えば、生死の苦しみのまま代安住がある。

 自分が死ぬる。死にたくない。これは凡夫の常の心で、あえて不思議でもない。死にたくなければ、佛の無量寿の中で死なしたらどうか。死ぬるものを死なせまいとするから、死の恐れが出てくるのだ。生も佛の家に投げ入れ、死も佛の大悲心の中に投げ入れて、佛の大慈悲光明の中の生死と思えば、心は安らかである。この悟りが開けたら、そのとき生死を超えて、佛の無量寿の生命とつながったのである。

 佛の中に投げ入れる術が分からないから、佛の方から、我らの生死の中に入り込んでこられて、生死の依り処となってくださる。我らの生死を背に負うて、地獄の火の中も渡ってくださるのである。一念の信心まことなれば、佛は我に入り、我は佛に入りて、入我我入の妙境が得られる。

 佛の力、佛の功徳力は、凡夫が自分で、とやかくと考えるべきものでない。考うれば佛の邪魔をしたことになる。考えを捨てて信ぜよ、信ずることが出来ないと歎くことは入らぬ。如来は大慈悲者である。我が前にいますことは現前の事実である。如来のいましたもうという事実は、我を捨てたまわざる証拠である。この佛、この如来、この大悲の親を念ずる(信じて、あて力とたのむ)とき、必ず安心立命がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)

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よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...