人は何れの処に向かってか安心立命しようとしておるのであるか。心は一秒ごとに変化して、しばらくも静止しない。これ意識流の実相である。取るべき心もなく、捨てるべき心もなく、過去心も手には取れず、現在心も影法師、未来心も泡沫の如きものである。どの心を以て、どの心に安心立命をしようとするのであろうか。
身は是れ無常。生あれば死がある。生が死になるのではない。生も一時の変化状態なれば死もまた一時の変化である。生死は生死のままにさせておけば、それでよいではないか。生死を食い止めようと思っても、百万人の力を以てしても如何ともしがたいではないか。
佛の大慈悲心の流れのうちの生死と思えば、生死の苦しみのまま代安住がある。
自分が死ぬる。死にたくない。これは凡夫の常の心で、あえて不思議でもない。死にたくなければ、佛の無量寿の中で死なしたらどうか。死ぬるものを死なせまいとするから、死の恐れが出てくるのだ。生も佛の家に投げ入れ、死も佛の大悲心の中に投げ入れて、佛の大慈悲光明の中の生死と思えば、心は安らかである。この悟りが開けたら、そのとき生死を超えて、佛の無量寿の生命とつながったのである。
佛の中に投げ入れる術が分からないから、佛の方から、我らの生死の中に入り込んでこられて、生死の依り処となってくださる。我らの生死を背に負うて、地獄の火の中も渡ってくださるのである。一念の信心まことなれば、佛は我に入り、我は佛に入りて、入我我入の妙境が得られる。
佛の力、佛の功徳力は、凡夫が自分で、とやかくと考えるべきものでない。考うれば佛の邪魔をしたことになる。考えを捨てて信ぜよ、信ずることが出来ないと歎くことは入らぬ。如来は大慈悲者である。我が前にいますことは現前の事実である。如来のいましたもうという事実は、我を捨てたまわざる証拠である。この佛、この如来、この大悲の親を念ずる(信じて、あて力とたのむ)とき、必ず安心立命がある。
稲垣瑞劔師「法雷」第86号(1984年2月発行)
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