2021年2月24日水曜日

信心銘 23

 若い時、達者な時、世事に忙しくしておる時は、分かったと思っておることが分かっておらぬもので、また、自分が正しいと思っておることが正しくないものである。
 安心は、井戸を掘るように深く子細に聞かねばならぬ。

 いざ、死ぬるとなれば、平生ああ思っておる、こう思っておる、これでよし、あれでよし、これではいかん、あれではいかん、と積んだり崩したりしてはかろうてきた心も、はかろう気力も無くなって、先は真っ暗闇になるものである。本願力は大きいでなあ!

 如来さまは水臭い他人ぼとけではない。地獄へ今落ち込まんとしておる私を見殺しにはなさらぬ、引っとらえてお浄土へ連れて行ってくださる。
 「どうぞ私に助けさせておくれ」
 「どうぞ私にまかせておくれ」
 「どうぞそのまま直ぐ来ておくれ」
と、大悲のありったけをぶちまけて、声を絞って仰せ下さる。

 「本願力」といい、「南無阿弥陀佛」といい、「よびごえ」といい、ただこれ如来の大慈悲心を衆生に感得させたいからである。

 大慈悲心は生きておる。大慈悲力は不思議である。ひとたび如来さまの大悲に泣くのを、「本願力に乗ずる」とも「名号を聞く」ともいうのである。

 如来さまが分からんか。「一乗大智願海回向利益他の真実心」とは如来さまの「まこと」をいうのである。如来さまは「まこと」の親様である。

 世は火宅無常、身は煩悩具足、心は罪悪深重、散乱放逸、こんな浅ましい凡夫が一超にして如来地に到る。本願力の不思議を不思議と思わぬか。

 本願力のうちに往生の一路を決す。凡夫の思いはお浄土参りには藁すべ一本ほどの足しにもならぬ。参れると思うて参れるお浄土ではない。「参らせねばおかぬ」の如来さまの本願力で参らせていただくのである。

 「死にがけに真っ暗闇が出て来る」というのは、お浄土参りとなれば、凡夫は絶対無力で、何となく地獄の責め苦が恐ろしくなったことである。そのとき「本願力は大きいでなあ」と阿弥陀さまの声が聞こえる。平生に聞いておかねば、いざというとき間には合わぬ。

 昼は太陽の光があり、夜は電灯の光があり、五欲の心の猿に追い駆けられて、あれしてこれしてと、世渡りのことに誤魔化されて、死にがけに出てくる真っ暗闇を忘れておる。実は昼間でも真っ暗闇であるのだが。

 凡夫に取っては昼も真っ暗闇で、絶対に佛に成れぬ運命を持っておる。それというのも我が身が可愛いという我執があるからである。本願力という「他力」によらなければ往生成佛の道は一つも二つもあること無し。

稲垣瑞劔師「法雷」第23号(1978年11月発行)

4 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

>凡夫に取っては昼も真っ暗闇で、絶対に佛に成れぬ運命を持っておる。

まことに凡夫は、どこまでも仏には成れない。


>凡夫の思いはお浄土参りには藁すべ一本ほどの足しにもならぬ。参れると思うて参れるお浄土ではない。

まことに凡夫は、どこまでも浄土には参れない。

光瑞寺 さんのコメント...

「妄念はもとより凡夫の地体なり。妄念のほかに別に心はなきなり。」
とは、誇張ではなく的確なものなのでしょう。

まことに先人たちは、無明の闇夜に同じて願心の明月を示し、無碍の大道を開いて下さいます。

土見誠輝 さんのコメント...

本願力という「他力」によらなければ往生成佛の道は一つも二つもあること無し。

「他力」と言ふは、如来の本願力なり。(教行信証行巻)
と教えていただいております。

光瑞寺 さんのコメント...

宗祖も先人たちも、他力に驚かれ、本願力に驚嘆されたのでしょうね。南無阿弥陀佛

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...