2021年2月18日木曜日

随想 微妙音(二)

・「今死んだらどうなるか」
 この問題はむつかしい。禅宗の和尚に聞けば何とか言うであろう。剣道の名人に聞いたら何とか言うであろう。お寺のご院主に聞いたら何とか言うであろう。説教師に聞いたら何とか言うであろう。また妙好人に聞いたら何とか言うであろう。
 源信和尚も親鸞聖人も、この問題を片時も忘れず、この問題の解決に一生を捧げられた。

・「今死んだらどうなるか」
 覚如上人は『執持鈔』に「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」と申された。死にがけの病人には、これ以上の説教はあるまい。

・死にがけの病人には、「大悲のおやが待ってござる」の一言でよい。

・死の解決は、あきらめ主義ではない。他の宗教のように祈祷主義ではない。現代人のように科学主義ではない。

・青年は、科学で何もかも解決できるように思っておるが、善悪の問題が科学で解けるか、科学する人間の心が科学で解けるか。

・聖道門、難行の佛教は、学として一点の欠陥もない。人智の極を超えて、佛智の世界を開顕したものであるから、真理の中の真理である。利智精進の絶世の偉人、聖者にして初めて、その修行を行ずることが出来る。宗教や哲学を議論する人は、華厳、天台、禅などの学を覗いてみる必要がある。
 その華天禅で説くところの真理は真理として、凡夫が愚痴罪悪のあるままで、涅槃の悟りの世界に直入するところの大宗教が浄土真宗である。世界の他の宗教と同列ではない。

・『歎異抄』は短くて文章が立派であるから世界的に知られるようになったが、もっと良いことを言えば、『和讃』を三十年ほど師匠に就いて一生懸命に勉強をする方がもっと良い。死の解決を問題として、三千ほど問いを出して解答を求めたらよい。
 真宗の人は聖典を読まぬのが欠点である。問題を出さぬのが欠点である。物を言わぬのが欠点である。

・愚者は智者を嘲り、狂人は狂せざる人を見て罵る。真宗のような最高の宗教になると、一寸やそっとで分かるものでない。学問的に理解することも難しいが、「今死んだらどうなるか」の問題を解決するほど難しい問題はない。

・死の解決は、学問としても最高の問題であり、人間として最高最深、内心秘奥の問題である。この問題が解けなければ人間としての価値がない。安心決定というも、死の問題の解決に他ならぬ。

・死の問題を解決した人は親鸞聖人、蓮如上人である。また七高僧といわれる方々である。それらの人々の言葉をよくよく噛みしめる他に、死の解決はない。説経を少しばかり聞いて、へりくつを言っておっては始まらん。

・親鸞聖人が『教行信証』を御製作あそばされ、『和讃』その他の御聖教をお書きなされて、八十八歳の御時、筆納めとして「自然法爾章」をお書きあそばされた。
 是に於てか、為すべき事を為し終わり、説くべき事を説き終わりて、浄土に還帰あそばされたのである。これが聖人の死の解決である。
 また「信楽を願力に彰わし、妙果を安養に顕さん」と、これが聖人の死の解決である。

・末代無智の在家止住のともがらは、聖人のお言葉をいただき、あの満九十年の御一生を憶念させていただいているうちに死の解決がある。

・おのおの如来さまを持ち、日本に生まれ、遇い難き佛法に遇わせてもらったら、これ以上のことはないではないか。恩海無量のうちに生まれ、恩海無量のうちに育ち、また恩海無量のうちに往生することを慶ぶべきである。

・両親と師匠と、法友が大事である。また、ありがたい人がいたならば、その姿を見るとひとりでに死の解決が出来る。

稲垣瑞劔師「法雷」第22号(1978年10月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

覚如上人は『執持鈔』に
「往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすじに如来にまかせたてまつるべし」
と申された。

まことに、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし。」
と同じです。

光瑞寺 さんのコメント...

臨終は全くの無力、見ることも話すことも考えることもできなくなった、まさにその時でも、如来さまはたのもしい。

「夜はくらし 道も分からぬその時に
 阿弥陀如来が手を引いて
 本願力は大きいでなあ  瑞劔」

死の解決㈢

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