学者は書物を書く。何のためにどういうつもりで書くかと言えば、自己の名利のために書く。あるいは社会人類の利益のために書く。あるいは真理を真理のために書く。あるいは愚者を教誨せんがために書く。あるいは神のインスピレーションやオラクル(神託)によって書く。あるいは芸術家のごとくビジョンに刺激されて書く。あるいは高僧のごとく佛の大慈悲に燃えて書く。あるいは自己の墓石と思って書く。色々とその動機と目的と理由は異なっておる。
親鸞聖人が『教行信証』を書かれた目的及び動機は、一宗を開こうというお考えもあったであろうが、直接には法然聖人の『選択集』の真精神を発揮しようと思うてお書きになったのである。
この場合、御心の底に燃えていたものは佛恩報謝の念であった。「化巻」に曰く
「爰(ここ)に久しく願海に入りて、深く佛恩を知れり、至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)ふ」
と仰せられている。
信心は佛恩報謝に出るものである。これが法界の理法であり、原則である。
佛恩報謝とは何ぞ。謂く、妙法を弘通することである。妙法の弘通は、南無阿弥陀佛を称念することを以て第一義と為す。
これまた〈我れ〉ではない。三誓偈に「名声十方に超えん、究竟して聞ゆる所靡くば誓いて正覚を成ぜじ」と誓われた本願力の致すところである。
称名念佛の意味は、広大無辺であり、甚深微妙である。「行巻」に曰く、
「大行とは、無碍光如来の名(みな)を称するなり」
と。この場合の称名は、無碍光如来を讃嘆することである。
信心は讃嘆に出る。讃嘆せられるものは名号(南無阿弥陀佛)である。「真如一実の功徳宝海」である。讃嘆に出ない念佛は、自利の念佛である。
佛恩報謝は讃嘆することである。すなわち念佛である。信心が無ければ讃嘆はできぬ。讃嘆の念佛は、信心の表現である。信心は南無阿弥陀佛である。「我れが信ずる」「我れが称える」といったようなことではない。
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)
2 件のコメント:
「爰(ここ)に久しく願海に入りて、深く佛恩を知れり、至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)ふ」
とありますが、これは、有名な「三願転入」の後に引き続くお言葉です。
現在誤訳には、
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集める。
とありました。
信の上の報謝行は、法の自然であり自ずからそうなる、とは言うものの、機械的なものでなくて、私たちの心を大いに励まして下さいます。報ぜずんばあるべからず、謝せずんばあるべからず。
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