2021年6月16日水曜日

報ずべし謝すべし

 学者は書物を書く。何のためにどういうつもりで書くかと言えば、自己の名利のために書く。あるいは社会人類の利益のために書く。あるいは真理を真理のために書く。あるいは愚者を教誨せんがために書く。あるいは神のインスピレーションやオラクル(神託)によって書く。あるいは芸術家のごとくビジョンに刺激されて書く。あるいは高僧のごとく佛の大慈悲に燃えて書く。あるいは自己の墓石と思って書く。色々とその動機と目的と理由は異なっておる。

 親鸞聖人が『教行信証』を書かれた目的及び動機は、一宗を開こうというお考えもあったであろうが、直接には法然聖人の『選択集』の真精神を発揮しようと思うてお書きになったのである。

 この場合、御心の底に燃えていたものは佛恩報謝の念であった。「化巻」に曰く

「爰(ここ)に久しく願海に入りて、深く佛恩を知れり、至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)ふ」

と仰せられている。

 信心は佛恩報謝に出るものである。これが法界の理法であり、原則である。

 佛恩報謝とは何ぞ。謂く、妙法を弘通することである。妙法の弘通は、南無阿弥陀佛を称念することを以て第一義と為す。

 これまた〈我れ〉ではない。三誓偈に「名声十方に超えん、究竟して聞ゆる所靡くば誓いて正覚を成ぜじ」と誓われた本願力の致すところである。

 称名念佛の意味は、広大無辺であり、甚深微妙である。「行巻」に曰く、

「大行とは、無碍光如来の名(みな)を称するなり」

と。この場合の称名は、無碍光如来を讃嘆することである。

 信心は讃嘆に出る。讃嘆せられるものは名号(南無阿弥陀佛)である。「真如一実の功徳宝海」である。讃嘆に出ない念佛は、自利の念佛である。

 佛恩報謝は讃嘆することである。すなわち念佛である。信心が無ければ讃嘆はできぬ。讃嘆の念佛は、信心の表現である。信心は南無阿弥陀佛である。「我れが信ずる」「我れが称える」といったようなことではない。

稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「爰(ここ)に久しく願海に入りて、深く佛恩を知れり、至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭(ひろ)ふ」
とありますが、これは、有名な「三願転入」の後に引き続くお言葉です。

現在誤訳には、
ここに久しく、本願海に入ることができ、深く仏の恩を知ることができた。この尊い恩徳に報いるために、真実の教えのかなめとなる文を集める。
とありました。

光瑞寺 さんのコメント...

信の上の報謝行は、法の自然であり自ずからそうなる、とは言うものの、機械的なものでなくて、私たちの心を大いに励まして下さいます。報ぜずんばあるべからず、謝せずんばあるべからず。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...