2021年7月24日土曜日

安養にいたりて証すべし

 浄土真宗の佛性(ぶっしょう)論はなかなかむつかしい。

 南無阿弥陀佛(大行)は往生の真因なるが故に、これを「大行佛性」という。

 また大信心は往生の正因なるが故に、これを「信心佛性」という。

 如来の大慈大悲は一切衆生をして往生成佛せしむる力なるが故に、大慈大悲はまた佛性である。

 また如来様そのものが親様であり、親あるが故に子供(衆生)は育ち、成佛することが出来る。故に佛性はすなわちこれ如来である。

 また如来と涅槃とは不二であるから、涅槃は佛性である。

 また衆生は如来の本願に乗じて佛に成るのであるから、本願は佛性である。

 また如来の真実によりて救われるのであるから、真実は佛性である。

「若不生者 不取正覚」と聞いて信心を発起するところに、生ける佛性がある。

稲垣瑞劔師「法雷」第32号(1979年8月発行)

2021年7月18日日曜日

衆生の為にして利養の為にせず

 『観経』に言はく「佛身を観る者は佛心を見る、佛心とは大慈悲これである」と。佛にはかくのごとき不可思議の功徳がある。
 一方で、凡夫は佛身を見ることが出来ない。すなわち眼見(げんけん)することは出来ない。真佛土巻に曰く「一切衆生は実に如来の心相を知ること能わず」と。
 然しながら、如来の本願力によりて佛心を聞見(もんけん)することが出来る。これすなわち「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」である。

 阿弥陀如来は、一切の功徳をその口業(くごう)功徳、すなわち南無阿弥陀佛に成就して下さった。
 南無阿弥陀佛は如来の口業功徳なれば、称えて往生するものでなく、聞信して往生するのである。聞信もまた如来の功徳であり、本願力である。

稲垣瑞劔師「法雷」第31号(1979年7月発行)

2021年7月4日日曜日

万物の真理と法界の真理

 宗教の真偽を判別することは至難の業であるが、ざっと申せば、神が天地万物を造って人間の運命を支配する、と教える宗教は、真実の宗教とは言われない。

 神が天地万物を造ったという説を批判すると、万物を造る必要がどこにあるのか、造る材料又は資料をどこから得たか、という一点に尽きる。

 阿弥陀如来は天地万物の造り主ではない。天地万物それ自体は不生不滅である。神であろうが佛であろうが、不生不滅のものを造るといったことはないはずである。万物の真理は「八不中道」である。

 孔子やキリストやモハメットなども、偉い人には違いないが、佛教と比べると土台が違う、舞台が違う。どう違うかというと、他の宗教は禅定を持たぬ。禅定を持たぬということは、法界の真理が分からぬということである。
 法界の真理から流れ出た宗教でなくては信仰するに足らぬ。神から出た宗教は真実の宗教とはいわれぬ。
 
 法界の真理は「色即是空 空即是色」「色心不二」「空仮中三諦円融」である。
 また「心 佛 及衆生 是三無差別」である。
 また「相即相入」「諸法実相」「一即多 多即一」「円融無碍」である。

 弥陀の妙果を無上涅槃といい、真実の証といい、また滅度とも称する。
 お浄土は真実の証より展開したものである。それゆえ浄土を指して「極楽無為涅槃界」という。これ光寿二無量の世界である。

 阿弥陀如来の正覚というも、滅度のことであり、浄土のことである。
 その本質はと言えば、如来の大智大悲の南無阿弥陀佛である。
 ゆえに南無阿弥陀佛を「正覚」という。

 宗教の真偽を判別するには『教行信証』を読まねばならぬ。『教行信証』は「真仮明断の書」であり、又「真偽決判の書」である。

稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...