宗教の真偽を判別することは至難の業であるが、ざっと申せば、神が天地万物を造って人間の運命を支配する、と教える宗教は、真実の宗教とは言われない。
神が天地万物を造ったという説を批判すると、万物を造る必要がどこにあるのか、造る材料又は資料をどこから得たか、という一点に尽きる。
阿弥陀如来は天地万物の造り主ではない。天地万物それ自体は不生不滅である。神であろうが佛であろうが、不生不滅のものを造るといったことはないはずである。万物の真理は「八不中道」である。
孔子やキリストやモハメットなども、偉い人には違いないが、佛教と比べると土台が違う、舞台が違う。どう違うかというと、他の宗教は禅定を持たぬ。禅定を持たぬということは、法界の真理が分からぬということである。
法界の真理から流れ出た宗教でなくては信仰するに足らぬ。神から出た宗教は真実の宗教とはいわれぬ。
法界の真理は「色即是空 空即是色」「色心不二」「空仮中三諦円融」である。
また「心 佛 及衆生 是三無差別」である。
また「相即相入」「諸法実相」「一即多 多即一」「円融無碍」である。
弥陀の妙果を無上涅槃といい、真実の証といい、また滅度とも称する。
お浄土は真実の証より展開したものである。それゆえ浄土を指して「極楽無為涅槃界」という。これ光寿二無量の世界である。
阿弥陀如来の正覚というも、滅度のことであり、浄土のことである。
その本質はと言えば、如来の大智大悲の南無阿弥陀佛である。
ゆえに南無阿弥陀佛を「正覚」という。
宗教の真偽を判別するには『教行信証』を読まねばならぬ。『教行信証』は「真仮明断の書」であり、又「真偽決判の書」である。
稲垣瑞劔師「法雷」第30号(1979年6月発行)
2 件のコメント:
万物の真理は「八不中道」である。
とありますので、調べてみました。
龍樹菩薩の『中論』に「不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去」の句を八不。
すべての物事が、多くの要因によって存在しており、そのもの自体で他に影響されることなく存在しているものはない、という縁起の道理を説いたもの。
とありました。
カントが万物を捉えようとしたが「物自体」は分からぬ、としたそうです。
考えれば考えるほど、万物は不思議なのでしょう。
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