浄土門に入って一番難しいことは、素直に聞くということが一番難しい。
素直に聞いたつもりでも「私はこう思うておる」が出てくる。それが「はからい」というものである。
自分がこう思うておるから参られるのでない、阿弥陀如来のお慈悲で、佛智不思議で参らせていただくのである。
「自力無功(じりきむこう)」ということを聞いて、自力を捨てて他力になったような顔をする人が多いが、他力になるのには、苦労に苦労を重ねた挙げ句「どうしても参られぬ」「どう思うても参られぬ」と落ち切るところまで落ち切らなくては他力は分からぬ。
落ち切らぬ前に「このままのお助けや」などと聞くものだから、それをよいことにしておる。ほとんどが皆この種の同行である。
真宗の高祖方は、あらゆる佛教の学問をせられた方であるから、無明の研究も、罪の研究も十分しておられる。
そして、無明煩悩を退治するには八正道・六波羅蜜の修業をせねばならぬということもよくご承知であり、これまで何年か何十年か真剣になって、命懸けで修業されたのであるが、どうしても通れぬという関門にぶち当たられたのである。
その関門というのは「無我」になれないこと、「愛憎」の情が止まないことであった。その関門にぶち当たって「とても地獄は一定すみかぞかし」と悲鳴を上げられたのである。
善導大師が「出離の縁あることなし」と申されたのもそこであった。
今日の凡夫はそんな修行をしたこともなく、そんな関門にぶち当たった体験もないから、地獄行きと言われたとて「どこか地獄行きだ」と言わんばかりに顔をしておる。
地獄行きが分からぬ人にいくら極楽行きの話をしても馬の耳に風である。そこが信心の難しいところである。それ故、
「善知識にあふことも
おしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
信ずることもなをかたし」
と聖人は申されてある。
聖人がこのように申されているのに、説教さえ時々聞いたら信心がいただけるものと思うているのは大間違いである。
信心を得たら参れると思うておる間は、それは疑いであるから本当の大安心はない。
そこで安心を目指してもがいても、土台が地獄行きが分からぬものだから、安心など出来そうなはずがない。
「自分は信心をいただいた」と思うていた、その信心がつぶれ、また「これでお浄土へ往ける」と思うていたのがまたつぶれ、何百回何千回もそんなことを繰り返した後に「どうしても往けぬ」となったのが「とても地獄は一定すみかぞかし」の境地である。
「とても地獄は一定すみかぞかし」となったら、それが大安心でないか。「機の深信」の中に「法の深信」があるというのはそこのことだ。
稲垣瑞劔師「法雷」第33号(1979年9月発行)
3 件のコメント:
落ち切るところまで落ち切らなくては他力は分からぬ。
と教えていただいております。
すると、落ち切ったらお助けがあるように思ってしまうのですが、
落ち切ったら落ち切ったままです。浮かぶことはなく、道は無いのです。
どこどこまでも、私の頭で空想を描いても、救われ難き身です。
「どうしても参られぬ」と教えていただいております。
「どうしても参られぬ」という私や自我には用事はないのです。
ただ御本願を仰がせていただきましょう。
「とことん落ち切れ」という御化導は、時代性もあるのでしょうか。私自身は読みなれて抵抗感は薄いですが、今のお説教ではまず聞きませんし、自分でも使うことはありません。やはり「御本願を仰げ」という方が有り難く感じます。有り難うございます。
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