- どこの国でも物質文明が進むと、精神文化が衰えるのが通例である。神戸でも今から七十五年ほど前には、毎日説教のある寺が三つあった。いずれも百人以上の参詣人があった。今日では毎日説教のある寺は一ヵ寺もない。この現象は全国的である。
- 如来さまには無碍の光明がある。この光明の力は、煩悩と菩提とを一つにして下さる力である。この光明があるから凡夫は罪のあるこのままで往生するのである。
- 「難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。五年も十年も二十年もかかって、この言葉を徹底的に味わい味わい得たところが信心である。
- 信心のある人は必ず念佛を称える。その念佛は報恩行である。報恩は、第一信心をいただくことが報恩である。信心の上から称える念佛が報恩行である。また、大悲をあまねく伝えることが報恩である。身を慎んで、嘘をついたりごまかしをしないのも報恩である。
- 人間は皆罪の子であるから皆地獄行きであるが、それと同時にすべての衆生は如来さまの慈悲の光明に触れない者は一人もいないから、いつかは皆佛に成れる。すると人間は尊いものである。
稲垣瑞劔師「法雷」第34号(1979年10月発行)
2 件のコメント:
「神戸でも今から七十五年ほど前には、毎日説教のある寺が三つあった。いずれも百人以上の参詣人があった。」
この三つの寺は、どこなのかは分かりませんが、分かれば訪ねてみたいところです。
大阪の安方先生は志に燃えていた30代頃、自坊のお晨朝(じんぢょう;朝の勤行)に御門徒を誘い一緒にお勤めし、後で短い法話をなさっていたそうです。ほんの10分たらずの話でも毎日となると大変だったそうですが、寺のお祖母さんが誰より喜んでくださっていたそうです。
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