親鸞聖人のえらいところは、高僧の説を正しく信じ、正しくお説き下されたところが聖人のえらいところである。
親鸞聖人の『教行信証』は、一字一句 如来さまのお慈悲の光明である。
それを末世の衆生に知らせてやりたいと思し召して、一生涯食うものを食わず、着るものを着ずして、千辛万苦のうちにお書き残して下されたのが『教行信証』一部六巻のお聖教である。
ゆえに、『教行信証』を拝読して如来さまのお慈悲のわからぬものは、「論語読みの論語知らず」である。
浄土真宗は「行」と「信」とが往生の因である。「行」とは阿弥陀佛の勅命、本願の勅命である。「信」とは、如来の勅命に順うたのが「信」である。
順うと言うても、おのれが素直で、賢くて順うたのではない。およびごえの佛智、よんで助けて下さる如来さまの大慈悲心が強いものだから、水火をも忘れて「有り難うございます」と自然に頭が下がったのが「信」である。
唯だ是れ南無阿弥陀佛のひとりばたらきであり、本願力のひとりばたらきである。
稲垣瑞劔師「法雷」第35号(1979年11月発行)
2 件のコメント:
「一字一句 如来さまのお慈悲の光明である。」
とあります。
如来さまの慈悲と智慧をあらわす、
光明が無量であると第十一願に誓われています。
寿命が無量であると第十二願に誓われていますが、
それは如来さまの能力をあらわすのだと、
教えていただいております。
2020年8月11日の投稿で
「極楽荘厳がこの娑婆に現れて『大経』となり、『教行信証』となった」
という一文がありました。
お浄土も『大経』も生きており、その生命を受けてお書きくださった親鸞聖人の御文にも、如来さまの光寿が通って下さっています。
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