信心は、佛の人格、または師匠の人格と自分の人格、人格と人格との触れ合いである。
信心がいただけぬというのは、如来様や本願名号を死にものにしておるからである。お浄土も、如来様も、本願力も、名号も、死にものではないぞよ。
浄土真宗は生きておる宗教である。如来の大生命の宗教である。名号も生きておれば、信心も生きておる。
佛法は耳で聞くだけではあかん。お聖教から、礼拝から、本願名号から、大悲心から、佛智から、阿弥陀如来様から、また師匠の顔から、眼から、音声から、その信心の人格から、不断に発しておるところの光明の放射能を、日夜に何十年と受け取らぬことにはあかん。
聖人のたまわく「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。
阿弥陀如来の佛心・佛智から出る放射能は強い。これを南無阿弥陀佛といい、また無碍の光明という。
聖人は無碍の光明によりて、無碍の光明のうちに安心安堵せられたのである。
衆生の罪悪無智の闇を晴らすのは、唯だ阿弥陀如来の佛智・大悲の大心力たる南無阿弥陀佛の放射能である。それ以外の力では、煩悩の闇は晴れぬ。
親鸞聖人の叡山二十年の修行も、阿弥陀如来の放射能でないものはなかった。
また「化身土巻」に表白しておられるように、聖道門から浄土門に入り、十九願より二十願に回入し、二十願より十八願に転入せられたのも、一面から見れば聖人の体験、聖人の信心の歴程を物語るものであるが、その実のところは「法徳自然(ほっとくじねん)の妙益(みょうやく)」であって、如来の放射能が徹底する径路を物語っておるのである。
真実信心に到るまでには、如来様は久遠の昔から、大悲の放射能を出しづめである。
稲垣瑞劔師「法雷」第39号(1980年3月発行)
2 件のコメント:
「光明の放射能」、「大悲の放射能」、などと「放射能」が
沢山出てきています。
原爆のイメージが強いため、悪い意味に感じてしまうのですが、
「放射線」を浴びているのではなく、
「放射能」は、ある元素が放射性崩壊を起こして別の元素に変化する性質(能力)を言うとありました。
私も「放射能」と「放射線」を混同していました。
それにしても、原子レベルの作用・変化でとてつもないエネルギーが生み出されるなんて、物理化学の基礎がない頭には理解しがたいです。
分かるように言いくるめてくださっていますが、佛さまの話も本当は理解を超えているのかもしれません。
ここで言われている「放射能」とは、佛教の用語で言い換えれば、すべて光明であります。
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