2022年1月1日土曜日

南無阿弥陀佛は生きておる

 信心は、佛の人格、または師匠の人格と自分の人格、人格と人格との触れ合いである。

 信心がいただけぬというのは、如来様や本願名号を死にものにしておるからである。お浄土も、如来様も、本願力も、名号も、死にものではないぞよ。

 浄土真宗は生きておる宗教である。如来の大生命の宗教である。名号も生きておれば、信心も生きておる。

 佛法は耳で聞くだけではあかん。お聖教から、礼拝から、本願名号から、大悲心から、佛智から、阿弥陀如来様から、また師匠の顔から、眼から、音声から、その信心の人格から、不断に発しておるところの光明の放射能を、日夜に何十年と受け取らぬことにはあかん。

  

 聖人のたまわく「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。

 阿弥陀如来の佛心・佛智から出る放射能は強い。これを南無阿弥陀佛といい、また無碍の光明という。

 聖人は無碍の光明によりて、無碍の光明のうちに安心安堵せられたのである。

 衆生の罪悪無智の闇を晴らすのは、唯だ阿弥陀如来の佛智・大悲の大心力たる南無阿弥陀佛の放射能である。それ以外の力では、煩悩の闇は晴れぬ。

 親鸞聖人の叡山二十年の修行も、阿弥陀如来の放射能でないものはなかった。

 また「化身土巻」に表白しておられるように、聖道門から浄土門に入り、十九願より二十願に回入し、二十願より十八願に転入せられたのも、一面から見れば聖人の体験、聖人の信心の歴程を物語るものであるが、その実のところは「法徳自然(ほっとくじねん)の妙益(みょうやく)」であって、如来の放射能が徹底する径路を物語っておるのである。

 真実信心に到るまでには、如来様は久遠の昔から、大悲の放射能を出しづめである。

稲垣瑞劔師「法雷」第39号(1980年3月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

「光明の放射能」、「大悲の放射能」、などと「放射能」が
沢山出てきています。
原爆のイメージが強いため、悪い意味に感じてしまうのですが、
「放射線」を浴びているのではなく、
「放射能」は、ある元素が放射性崩壊を起こして別の元素に変化する性質(能力)を言うとありました。

光瑞寺 さんのコメント...

私も「放射能」と「放射線」を混同していました。
それにしても、原子レベルの作用・変化でとてつもないエネルギーが生み出されるなんて、物理化学の基礎がない頭には理解しがたいです。
分かるように言いくるめてくださっていますが、佛さまの話も本当は理解を超えているのかもしれません。
ここで言われている「放射能」とは、佛教の用語で言い換えれば、すべて光明であります。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...