浄土の三種荘厳の中でも、中心は佛荘厳である。この八種の佛荘厳の中で、第八番目の荘厳を「不虚作住持(ふこさじゅうじ)功徳成就」という。この荘厳が有り難い。不虚作住持功徳成就というのは、佛徳の中の最高の功徳である。
『浄土論』の不虚作住持功徳の文に曰く、
「観佛本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」
「佛の本願力を観ずる」とは、尽十方無碍光如来の本願力が、行者の心に徹到して、「如来の本願力にて往生する」と如来の本願力をたのもしく思う(信)のを言う。この場合、「信」と「観」とは同じ意味である。
「観ずる」というのは、凡夫が意識のはたらきで「こうである」「ああである」と思うことではない。それは意業といって、信心ではない。信心は意識(意業)に浮かび出ずるものではあるが、凡夫の日常の思いのごとく、思うたのが信心ではない。
信心は如来の佛智(大悲心)が、凡夫の心に徹到し、印現したのを信心というのである。今の「観ずる」がそれである。
真心(大慈悲心)が徹到すると、己れ忘れて「ありがとうございます」となるものである。「己れ忘れる」とは、「こうである」「ああである」と凡夫が意識のはたらきをしないことである。
また「ああ分かった、これでよい」と、自分の知性を当てにしないで、ただ信順することを信心という。
行け来いの 中で忘るる 己哉(瑞劔)
浄土の三種荘厳を観ずるというのは、尽十方無碍光如来を観ずることと同じであって、天親菩薩はそれを「一心に尽十方無碍光如来に帰命す」と申された。
稲垣瑞劔師「法雷」第40号(1980年4月発行)
2 件のコメント:
「不虚作住持」とは、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに「成就」といふ。
(『往生論註』より)
「虚設」は、今日ではあまり使われなくなった言葉ですが、
そのまま、「むなしくもうける」ということと読ませていただきました。
『論註』下巻の最後、他力を明かす中にも、往還の回向はみな本願力に由るのだとして、
「もし佛力にあらずは、四十八願すなはちこれ徒(いたづら)に設けたまふらん」
とあります。
「火宅無常の世界は、よろづのこと、そらごとたはごと、まことあることなきに」、四十八願は口先だけでないぞ、本願真実であるぞ。
コメントを投稿