2022年1月9日日曜日

聞其名号より他なし

 禅宗で悟るには「自性(じしょう)」を見たらよい。これを「見性(けんしょう)」という。自性は「心性(しんしょう)」であり、心性は「佛性」である。佛性は山川草木そのものである。つまり法身佛を見たのが見性である、悟りである、佛である。これは難しい。今日の凡夫ができることではない。

 『観無量寿経』を拝見すると、第九真身観の文に言く
  「佛身を観ずる(心眼を以て見る)を以ての故に、亦佛心を見る。佛心とは大慈悲これなり。無縁の慈悲を以て、諸の衆生を摂す。この観を作す者は、身を捨てて他世に諸佛の前に生じ、無生忍(万物の無生(不生)を悟る)を得ん。この故に智者、まさに心を懸け諦かに無量寿佛を観ずべし」

と。これにて知るがよい、われら悪逆の凡夫としては、木を見ても石ころを見ても、直ちにこれを法身佛と観ずる(真如三昧)だけの智慧がない。それで釈迦如来が観佛三昧を教えてくださった。これすら今日の凡夫として出来る人は一人もない。
 それゆえに釈迦如来は念佛三昧を教えてくださった。
 念佛三昧は『大無量寿経』に来たって、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」の信心正因にまで進まねばならぬ。
 釈迦如来の善巧方便を有り難く思わねばならぬ。

 ここで注意して『観経』の御文を拝見するがよい。無量寿佛を見奉ったら、無量寿佛から発するところの大慈悲の放射能にふれて、その放射能を身心に受け入れて、ここに信心成就して往生するのである。無量寿佛の威神功徳は、まことに不可思議ではないか。
 このお経を拝見して、阿弥陀如来は不可思議な佛様である、尊い佛様である、有り難い佛様である、たのもしいなあ!と思われたら、これすなわち信心である。
 信心も往生も、阿弥陀如来の功徳力用、霊的放射能のお陰であるということが分かるであろう。ここを
 「南無阿弥陀佛にて往生す」
 「阿弥陀如来の功徳力にて往生す」
というのである。如来様のこれらの放射能によりてのみ、衆生は疑心自力の火が消えて、信心歓喜して、大悲の親様を仰ぎ仰ぎ、念佛して往生するのである。

 如来様の放射能は不可思議であって、名号を聞いても、書いても、話しても、その放射能を受けるが、「聞其名号」と聞信するところ、すなわち名号の全放射能を身心に受けて信心歓喜するのである。南無阿弥陀佛は生きてござる。 
 われらの生命はこの一句にかかっておることを深く信じて、命懸けでこの一句に終生の努力を捧げるがよい。
 文字を覚え講釈を聞き、知識がいかに豊富になっても、学者知者になっても、何にもならぬ。ただ「聞其名号」と、名号の功徳力にて往生させていただくのである。

 浄土真宗は、文字言句ではない、知解分別でもない。また説明でもなければ、議論でもない。実際問題であり、事実の問題である。如来様が大智大悲の放射能を、不断に出しておられることも事実なれば、その放射能にふれることも事実である。
 恭敬(くぎょう)の心をもって名号を聞くところ、名号の放射能にふれることができる。これすなわち真実の信心である。お念佛するところ、また名号の放射能にふれることができる。
 名号を聞かせて、名号の放射能にふれさせて、信心歓喜せしめて、お浄土へ連れて行くというのが如来様の本願である。この本願がなかったならば、名号の放射能にふれることもできぬ。
 われらが念佛するから往生するのではない。如来様の大智大悲のお力で往生するのである。すなわち名号の功徳力用にて往生するのである。

 南無阿弥陀佛の大智大悲の放射能にふれて信心歓喜した人は、また本願力によりてお念佛を称える。すると不思議なことには、そのお念佛が放射能を出して、これを聞く人が信心歓喜するようになる。
 かくして、名号は不尽不滅に、十方に遍満することになる。

 信心は、自分が上手に説教したから他の人が信心を取るというものでなくて、名号の不可思議功徳の放射能を話すと、それを聞く人は、直接に名号の放射能にふれて信心歓喜するのである。いくら上手に説教したからとて、他の人に信心を得さすことができるものか。凡夫にはそんな力はない。

稲垣瑞劔師「法雷」第40号(1980年4月発行)

3 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...
このコメントは投稿者によって削除されました。
土見誠輝 さんのコメント...

「大慈悲の放射能」、「名号の放射能」、などと「放射能」が
さらに沢山出てきています。
アメリカによる日本への原爆投下による被害のイメージが強いため、
とても悪い意味に感じてしまうのですが、

ここでは、
「放射線」による有害な影響のあるものを浴びているのではなく、
「放射能」は、ある元素が放射性崩壊を起こして別の元素に変化する性質(能力)を言うとありました。

光瑞寺 さんのコメント...

私も「放射能」という語感からは有害な性質をイメージさせられます。
瑞劔師の著述での「放射能」という用例は、昭和50年代のこの一時期だけのようです。読み手には忌避感はなかったのかなと心配しますが、世間的には戦後の復興も果たしたと思われていたのでしょうか。
読む側が上手に読んでくださったのだと思いたいです。

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