2022年3月20日日曜日

大心海(続)

 
  • 大風に 灰を撒いたる わが心 愚中の愚 狂中の狂

 凡夫の心は皆妄念、凡夫の知識は皆自力、どうするのか、どうするのか。心たのみて弥陀をたのまぬ人が多い。自分の心に愛想を尽かすがよい。それには、大風に灰を撒いたような、とりとめもない、変幻極まりもないのが自分の心である、と確(しか)と思うて、ひとえに本願力をたのむべきである。
  

  • 因果を信じ 死をおもい 三宝に帰して 信を語れよ

 信心をいただくにも土台が要る、準備が要る。因果を深信し、無常を念じ、佛法僧の三宝に帰依することが土台である。土台が出来上がらなければ、信心の家は建たぬ。
 その上に、心は淳で、素直で、謙虚でなくてはいかん。自分はこう思うている、こう考えているではいかん。
  

  • 唯だ無碍の光明 願力摂取 説くこともなし 言うこともなし

 法界は衆生界である。法界を照らすものは、唯だ阿弥陀如来の無碍の光明あるのみ。聖人のたまわく「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。この一句、万劫の渇を治する思いがある。

  • 尽十方無碍光如来 真実功徳相で 腹がふくれる
 天親菩薩は「世尊よ、我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず」と申された。「一心帰命」は南無であり、「尽十方無碍光如来」は阿弥陀佛である。ゆえに聖人はこれを「誓願の尊号なり」と仰せられた。お六字の他に信心があるのではない。

  • 昼はひねもす 夜は夜もすがら 若不生者とせまりくる
 大悲招喚の勅命は、昼も夜も絶え間なく、不断に響いている。
 さあ今臨終という時、「待っておるぞよ」と如来様の声を聞いたら、「やれうれし!」より他はあるまい。
 臨終は今じゃ、「若し生まれずは正覚を取らじ」とお誓いあそばされた本願真実のよびごえが、今も響きわたっておる。
  
  • 本願力の南無阿弥陀佛のよびごえ一つ 信心はよびごえじゃ
 よびごえの他に、凡夫の方から持ち出すものは一つもない。こちらから持ち出したら、それは皆自力である。南無阿弥陀佛にて往生す。南無阿弥陀佛が信心である。
  
  • ああ月が 今宵の月は まるはだか はだかでいつも 親の前
 聞いたら、聞いたことが後に残る。残ることもよいが、聞いたこと、知っておること、覚えておることを当てにし、頼みにし、自分の知解分別を信心のように思うからいかん。知った信心、何にもならぬ。
 見聞覚知を当てにしないで、ひとえに本願力をたのむ人はまことの信者である。
  
  • 九十年 何を聞いたかおぼえたか 本願名号ただひとつ よばれてかえる 親のふる里
 「あなたは何十年もお寺参りして、何を聞かれましたか」と問われて、「何にも聞いておりません。何も知りません」と答える。
 「お念佛を何のために称えなさるか」と問われて、「ひとり出て下さいます、南無阿弥陀佛様がよんで下さいますのが、有り難うございましてなあ」と答える人はたのもしい同行である。
  
  • このままと 言えどこのまま 幾千種
 誰も彼も「このまま」と言うておるが、本当の「このまま」は、機の深信に徹し、法の深信に徹した人でなければ言えない言葉である。すなわち佛智の不思議を「不思議やなあ」と信じた人のみが、「このまま」の味を知っておる。

稲垣瑞劔師「法雷」第48号(1980年12月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

タイトル 尽十方無碍光如来 真実功徳相で 腹がふくれる
のところに、「お六字の他に信心があるのではない。」
とあります。

南無阿弥陀佛の他に何かあるように思っているのは、
聞きあやまりですよ、と教えていただいています。

光瑞寺 さんのコメント...

知ったこと、覚えたことをいっぱい抱えて、それでいて不足を感じています。
もったいない もったいない、南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...