- 大風に 灰を撒いたる わが心 愚中の愚 狂中の狂
凡夫の心は皆妄念、凡夫の知識は皆自力、どうするのか、どうするのか。心たのみて弥陀をたのまぬ人が多い。自分の心に愛想を尽かすがよい。それには、大風に灰を撒いたような、とりとめもない、変幻極まりもないのが自分の心である、と確(しか)と思うて、ひとえに本願力をたのむべきである。
- 因果を信じ 死をおもい 三宝に帰して 信を語れよ
信心をいただくにも土台が要る、準備が要る。因果を深信し、無常を念じ、佛法僧の三宝に帰依することが土台である。土台が出来上がらなければ、信心の家は建たぬ。
その上に、心は淳で、素直で、謙虚でなくてはいかん。自分はこう思うている、こう考えているではいかん。
- 唯だ無碍の光明 願力摂取 説くこともなし 言うこともなし
法界は衆生界である。法界を照らすものは、唯だ阿弥陀如来の無碍の光明あるのみ。聖人のたまわく「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」と。この一句、万劫の渇を治する思いがある。
- 尽十方無碍光如来 真実功徳相で 腹がふくれる
天親菩薩は「世尊よ、我れ一心に尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生ぜんと願ず」と申された。「一心帰命」は南無であり、「尽十方無碍光如来」は阿弥陀佛である。ゆえに聖人はこれを「誓願の尊号なり」と仰せられた。お六字の他に信心があるのではない。
- 昼はひねもす 夜は夜もすがら 若不生者とせまりくる
大悲招喚の勅命は、昼も夜も絶え間なく、不断に響いている。
さあ今臨終という時、「待っておるぞよ」と如来様の声を聞いたら、「やれうれし!」より他はあるまい。
臨終は今じゃ、「若し生まれずは正覚を取らじ」とお誓いあそばされた本願真実のよびごえが、今も響きわたっておる。
- 本願力の南無阿弥陀佛のよびごえ一つ 信心はよびごえじゃ
よびごえの他に、凡夫の方から持ち出すものは一つもない。こちらから持ち出したら、それは皆自力である。南無阿弥陀佛にて往生す。南無阿弥陀佛が信心である。
- ああ月が 今宵の月は まるはだか はだかでいつも 親の前
見聞覚知を当てにしないで、ひとえに本願力をたのむ人はまことの信者である。
- 九十年 何を聞いたかおぼえたか 本願名号ただひとつ よばれてかえる 親のふる里
「あなたは何十年もお寺参りして、何を聞かれましたか」と問われて、「何にも聞いておりません。何も知りません」と答える。
「お念佛を何のために称えなさるか」と問われて、「ひとり出て下さいます、南無阿弥陀佛様がよんで下さいますのが、有り難うございましてなあ」と答える人はたのもしい同行である。
- このままと 言えどこのまま 幾千種
誰も彼も「このまま」と言うておるが、本当の「このまま」は、機の深信に徹し、法の深信に徹した人でなければ言えない言葉である。すなわち佛智の不思議を「不思議やなあ」と信じた人のみが、「このまま」の味を知っておる。
稲垣瑞劔師「法雷」第48号(1980年12月発行)
2 件のコメント:
タイトル 尽十方無碍光如来 真実功徳相で 腹がふくれる
のところに、「お六字の他に信心があるのではない。」
とあります。
南無阿弥陀佛の他に何かあるように思っているのは、
聞きあやまりですよ、と教えていただいています。
知ったこと、覚えたことをいっぱい抱えて、それでいて不足を感じています。
もったいない もったいない、南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
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