佛教はむつかしい。しかし他の宗旨ならば師匠なくしても、ある程度までは自学自習でやれないことはない。
真宗の御本書『教行信証』は自学自習ではいかぬ。独学でやれば怪我をする。脱線しない者はほとんど無い。師匠は常々そう言うておられた。
真宗は、学問としてこれを学ぶ時には、易いようで実はこれほどむつかしい学問はない。信心なくしては、学問としてもわかるものではない。そこが真宗の特色である。それ故むつかしいというのは安心がむつかしいのである。禅の悟りを開くほどむつかしい。
ところで、ここに自分が本当に信ずる信心の行者、あるいは先生があって、その人が「末代無智の御文章か聖人一流の御文章だけでお浄土へ参れる、その外に佛法なし」といって、間違いなくその真意を授けられたら、恐らく一通の御文章で信をいただくであろうと思われる。
「何のために佛法を聞くのであるか」と問われたら、答えて曰く、「私の出離のために聞くのである」と。
出離の要道を南無阿弥陀佛のよびごえの中に決したら、それより後は唯だ如来様を讃仰し、南無阿弥陀佛の本願力を讃嘆するばかりである。
何のために讃嘆するのかといえば、讃嘆のお念佛はこれまた如来の本願力に由るのである。讃嘆すれば佛法が弘まる。「正覚大音響流十方」の本願力がそのままあらわれて下さるのである。現世利益の眼を以ては佛法はわからぬ。
佛法は、頭があって暇があって、聞こうと思えばいつでも聞かれるように思うておるが、なかなかそうではない。佛法を聞くのは、よくよくの因縁である。その因縁をよろこばなくてはならぬ。聖人は「遠く宿縁を慶べ」と仰せられた。
よい父母を持ち、よい師匠を持ち、真宗の家に生まれ、佛書に恵まれ、善友に取り巻かれ、五十年七十年佛法の水につからせていただいた慶びは何ものにも代えられぬ。
辛い目に遭い、苦しい目に遭うたとき、その時に苦しみのうちから佛法をよろこばせていただく、ここが佛法の徳というものである。
「このまま」のお助けである。落ちるものをお助けの御本願である。
落ちるままお助け下さるのであると、そこまでは聞き覚えておるのであるが、どうももう一つ落ち着かれぬというのは、本願力の尊さ、忝さに眼をつけぬからである。阿弥陀さまが二利円満の大正覚の如来であり、若不生者不取正覚の誓願そのままの如来様であるということが憶われぬからである。
凡夫が往生できるというのは、如来様がおられるから助かるのである。誓願の通りに助けて下さるから助かるのである。よんで下さるから助かるのである。
自分のいただき振りに眼をつけないで、如来様のお手許に眼をつけさせていただき、御本願が凡夫の私に相応しておる尊さ、忝さに眼をつけるがよい。
稲垣瑞劔師「法雷」第53号(1981年5月発行)
2 件のコメント:
「何のために佛法を聞くのであるか」と問われたら、答えて曰く、「私の出離のために聞くのである」と。
とありますが、
『恵信尼消息』に、「生死いづべき道」と教えていただいております。
この道は先人たちの歩みのおかげであります。道草食いつつ、それでもいまだ外れずに道の上です。
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