極楽へ参ったならば楽しむ暇もあらばこそ。直ぐに心に如来の大悲心を薫じて法界に遊ぶ。娑婆に帰ったならば、苦は苦ながらに法を説く。法楽、喜楽かぎりなし。往っては帰り、帰ってはまた往く。往復無際、本願力を味わいながら、本願力を説く。楽しみの中の楽しみである。
「阿弥陀さまは、ようまあ私をよんでくださったものだ」と思う。無限のよろこびがこのうちに在る。
自分が称えるお念佛ではあるが、称えさせていただくのである。本願力によって如来様御自らのご出張である。称えさせていただいている中に、佛智の不思議、不思議の勅命を感得せしめられる。
釈迦・弥陀二尊の大悲によりて、弥陀の願力を仰がせてもらう。そこに「そのまま来たれ」「心配するな」の声が響いている。如来の大悲心に打たれたのが「一心の佛因」(信心)というものである。信心は、取るとか掴むとか握るとかいったものではない。
当流は如来様の勅命(仰せ)に順うのみである。それを、信知するとも信順するとも、疑いが晴れたともいうのである。凡夫の力ではいかん。永い間の光明照育のおかげである。これを宿善という。
阿弥陀如来は、私どもを摂取して捨てたまわぬ親であり、南無阿弥陀佛である。摂取不捨の願力を一南無阿弥陀佛に成就して、「心配するな」とよんでくださっている。
摂取不捨の願力は不思議の力である。光明寿命のお力、正覚のお力、真如の功徳、願行の功徳、万善円備の功徳がこもっている。ただただ不思議、不思議と仰ぐのみである。
如来様がありがたい。ただ如来様がありがたい。衆生の信も行も成就して、立っていてくださるおすがたが、帰命盡十方無碍光如来である。
如来様が生きておられたら、何の不足があろう。この世も如来様、未来も如来様である。
如来様の願力はそのまま佛智である。それで「如来の智願海は深広にして涯底なし」というのである。私を助けたもう不思議の佛智である。佛智の不思議を不思議と信じさせていただく外に佛法はない。
如来様は、御自身の正覚の功徳力で衆生が助かることを知ってござる、信じてござる、疑いがない。この如来の無疑の真実心が、願力廻向の力で私にとどいてくださる。必ず徹ってくださる。徹ったところ「これはこれは」「ああ忝い」となる。不可思議の御利益である。
「これはこれは」と私のはからいがすっかり取り去られ、迷心の雲霧が払われて、見れば本願力の月かげ一つが皓々と光っておる。
稲垣瑞劔師「法雷」第54号(1981年6月発行)
2 件のコメント:
自分が称えるお念佛ではあるが、称えさせていただくのである。本願力によって如来様御自らのご出張である。
とありますが、
お念仏は、如来様の直説法であると教えていただきます。
これほど有り難い事は無いですね。
如来様の直説法、有難く聞かせていただきましょう。精んで称えさせていただきましょう。
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