2022年5月20日金曜日

不思議、不可思議の親様

 極楽へ参ったならば楽しむ暇もあらばこそ。直ぐに心に如来の大悲心を薫じて法界に遊ぶ。娑婆に帰ったならば、苦は苦ながらに法を説く。法楽、喜楽かぎりなし。往っては帰り、帰ってはまた往く。往復無際、本願力を味わいながら、本願力を説く。楽しみの中の楽しみである。

 「阿弥陀さまは、ようまあ私をよんでくださったものだ」と思う。無限のよろこびがこのうちに在る。

 自分が称えるお念佛ではあるが、称えさせていただくのである。本願力によって如来様御自らのご出張である。称えさせていただいている中に、佛智の不思議、不思議の勅命を感得せしめられる。

 釈迦・弥陀二尊の大悲によりて、弥陀の願力を仰がせてもらう。そこに「そのまま来たれ」「心配するな」の声が響いている。如来の大悲心に打たれたのが「一心の佛因」(信心)というものである。信心は、取るとか掴むとか握るとかいったものではない。

 当流は如来様の勅命(仰せ)に順うのみである。それを、信知するとも信順するとも、疑いが晴れたともいうのである。凡夫の力ではいかん。永い間の光明照育のおかげである。これを宿善という。

 阿弥陀如来は、私どもを摂取して捨てたまわぬ親であり、南無阿弥陀佛である。摂取不捨の願力を一南無阿弥陀佛に成就して、「心配するな」とよんでくださっている。
 摂取不捨の願力は不思議の力である。光明寿命のお力、正覚のお力、真如の功徳、願行の功徳、万善円備の功徳がこもっている。ただただ不思議、不思議と仰ぐのみである。

 如来様がありがたい。ただ如来様がありがたい。衆生の信も行も成就して、立っていてくださるおすがたが、帰命盡十方無碍光如来である。
 如来様が生きておられたら、何の不足があろう。この世も如来様、未来も如来様である。

 如来様の願力はそのまま佛智である。それで「如来の智願海は深広にして涯底なし」というのである。私を助けたもう不思議の佛智である。佛智の不思議を不思議と信じさせていただく外に佛法はない。

 如来様は、御自身の正覚の功徳力で衆生が助かることを知ってござる、信じてござる、疑いがない。この如来の無疑の真実心が、願力廻向の力で私にとどいてくださる。必ず徹ってくださる。徹ったところ「これはこれは」「ああ忝い」となる。不可思議の御利益である。  
 「これはこれは」と私のはからいがすっかり取り去られ、迷心の雲霧が払われて、見れば本願力の月かげ一つが皓々と光っておる。

稲垣瑞劔師「法雷」第54号(1981年6月発行)

2 件のコメント:

土見誠輝 さんのコメント...

自分が称えるお念佛ではあるが、称えさせていただくのである。本願力によって如来様御自らのご出張である。
とありますが、
お念仏は、如来様の直説法であると教えていただきます。
これほど有り難い事は無いですね。

光瑞寺 さんのコメント...

如来様の直説法、有難く聞かせていただきましょう。精んで称えさせていただきましょう。

よびごえの うちに信心 落處あり

 佛智の不思議は、本当に不思議で、凡夫などの想像も及ばぬところである。佛には佛智と大悲がとろけ合っておる。それがまた勅命とも名号ともとろけ合っておる。  佛の境界は、妄念に満ち満ちた私の心を、佛の心の鏡に映じて摂取不捨と抱き取って下された機法一体の大正覚である。もはや佛心の鏡に映...