- 有と無とに囚われているものが凡夫である。有無の見から愛憎の念が起こる。それから貪欲と瞋恚と愚痴の三毒の煩悩が起こり、三毒から八万四千の煩悩が起こるのである。生死生死と流転しておる我らには、いずれが先ということもない。
- 人間が地獄へ落ちるのは、蚕が自分の吐き出した糸に縛られて、糸のために煮殺されるようなものである。
- 無明煩悩がどんなものやら、どこから湧いてきたものやら知らねども、自分に無明煩悩が有るということは事実だから仕方がない。それがために生死が常につきまとうてくるのである。『般若心経』には「無明も無く、亦無明の尽くることも無し」とある。味わうべきである。
- 人間は真に善い事ができないくせに、善い事をしようと思う。その心はよいが、一寸善い事をすると、直ぐそれを鼻に掛ける。自慢をする。他人に見せつける。そうしないまでも、自分の心に「善い事をした」ということを自慢そうに覚えておる。その心は凡夫心である。それで佛に成れないのである。
- 人間は悪いことばかりをする動物であるが、どこかに如来様のお助けにあずかる性根があると見える。如来様の子として、如来様に可愛がられるだけの徳がある。それが尊いことである。
- 我らはいつも如来様の御照覧を被り、如来様の前に引き出されている。されば「恥ずかしい」より外に思いはない。
- お浄土も如来様の心であり、身である。お浄土までが声を出して喚んでおる。如来様と一つになって喚んでおる。それを佛の欲生心という。佛の大悲回向心である。
稲垣瑞劔師「法雷」第55号(1981年7月発行)
2 件のコメント:
『般若心経』には「無明も無く、亦無明の尽くることも無し」とある。
とありますが、
「無無明亦無無明尽乃至無老死亦無老死尽」と漢文でありました。
十二縁起の「無明」から縁って起こるものを順次に明かせば、
十二番目に「老死」に行きつきます。
ここには「乃至」とありますから、十二すべてが
「●●も無く、亦●●の尽くることも無し」となります。
有無に囚われない廓然境は、目指す方向も手掛かりも全く絶えてしまっています。
けれど対極の、有に囚われ無に囚われる話なら分かる気がします。
そして、このがんじがらめの者を救わんとして心を砕いて下さったお慈悲も、嬉しく思われます。
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